A:「この世の終焉とは、肉体的な死である」
なぜなら、
B:「“この世”は、身体的な知覚によって認識される」
という意味において、
A*:「肉体に依拠する知覚の消失は、“個における世界”の終焉と同義だから」
である。
しかし、
確かに、
B2:「知覚によって世界は“認識可能”である」一方、
留意すべきは、
B3:「世界を“捉える”ことは、“認識”と“理解”によって為される」
ことである。
そして、命題B3における、
B3*:「世界を“理解”する機能とは、思考である」
と言える。
つまり、
A2:「世界というのは、知覚がなければ存在しないのと同義である」
と主張するのは可能であるが、それは、“正確な”定義ではない。
というのも、
C:「世界とは、知覚という“身体的側面”と、理解という“精神的側面”を持つ」
ことを見落としているからである。
このことは、命題B3*によって既に明らかである。
ここで、命題Aに対し、
D:「この世の終焉とは、精神的な死である」
と主張することは“できない”。
なぜなら、
C*:「世界は、身体と精神によって成立するものである」からだ。
ここで、
その成立が、どのような順序で起こるかが鍵である。
およそ考え得る順序とは
すなわち、
E1:「身体的な把握である“知覚”は、精神的な把握である“理解”に先行する」
E2:「精神的な把握である“理解”は、身体的な把握である“知覚”に先行する」
E3:「身体的な把握である“知覚”と、精神的な把握である“理解”は同時に起こる」
という三つのパターンである。
そして、
パターンE1が真である。
このことは、読者が、
当論証を目で“知覚”しながら、“理解”を試みていることに自明である。
このことから
C**:「世界は、身体による把握から精神による把握という流れで成立する」
ということが言えるわけであるが、
このことを踏まえて
命題AおよびDを照らし合わせると、次のことが言える。
すなわち、
F:「世界が二段階の把握によって為されることは、その終焉に影響する」
つまり、
F*:「“知覚”としての世界が終わったのちに、“理解”としての世界が終わる」
という構造が成立するのである。
このことは、
F**:「精神的に把握する“理解”の世界が存在する」
ことを意味し、
より正確に言えば、
F***:「精神的に成立する世界が終焉するか否かは、知覚に依存しない」
のである。
なぜなら、
命題C**で見たような順序がある以上、
G:「こと終焉の有無については、連なる二項のうち後者は前者の影響を受けない」
からである。
ゆえに、
∴「世界の終焉は、肉体的な死によってのみでは言明できない」
と言うことができる。