A:「人間が考え得る概念は、すべて存在していることが確かである」
というのは、
たとえば、
B:「幻獣のような空想上の存在であっても、空想という思考の内に存在する」
からである。
つまり、
B*:「“空想上の~”という言葉に続く名辞は、存在を表すものである」
のだ。
ここで、我々は、
A2:「存在と実在を区別しなくてはならない」
だろう。
つまりは、
A2*:「それが、思考の“内に”在る(存在)のか、思考の“外に”在る(実在)のか」
ということの規定である。
しかし、
ここで、
A3:「思考の内外どちらにあるのが、“真に在る”ことなのか」
を決定することは可能だろうか。
それは、
命題A2による区別の意義を考えることと同義であり、それは、
C:「人間とは何たるか」
を明らかにする上で意味を持つのである。
なぜなら、
C*:「“存在”と“実在”を“考える”ことは、思考の内に在るから」
である。
命題A2*で示されたように、
A2**:「思考の内にのみ在るものは、実在でなく存在である」
という観点に立った時、
命題Cのような問いを立てることが可能な時点で、
D:「人間とは、思考する者である」
ことが言え、
命題A3のようなことを考えても、
A3*:「思考の外側に人間が実在する保証はない」
のである。
よって、命題Cを追ったことで、
D2:「“在る”ことが確実に“観測”できるのは、思考そのものを形成する、言語のみである」
ことが考えられ、
しかるに、我々が、
E:「“実在”を規定することは、“思考の外に在るとはどういう状態なのか”への解」
を求めることである。
このことは、命題C*より、
E2:「思考の外に“のみ”在ることは不可能である」
ということに行き着くであろう。
つまり、命題A2*は更新され、
F:「実在とは、思考の内外“どちらにも”在るものである」
と言える。
では、命題Eの示すことは何か。
これは、
E*:「“思考の外に在る”とは“思考の範疇を超えること”を指していることに他ならない」
のであり、
これを命題Fと考え合わせると、
F*:「人間が“正確に”思考できないものこそが、実在しているものである」
ことがわかり、
F2:「思考可能で(存在が規定され)、かつ、把握しきれないもの」
を
F2*:「“考える”ことができれば、“存在”の条件を満たし、実在する可能性がある」
であろう。
そして、
命題E**に合致するものは、まさに“霊的なそれ”である。
よって、
∴「霊的なもの(こそ)は、実在する」
と言えよう。