『伝道者の書』をもとに、数回のメッセージを書いてきました。この巻の主題は、締めくくりの12章に集約されていると言えます。そこには、若いうちに神について知り、その掟を守るべきとの勧めが書かれています。
何回かに渡ってみてきましたが『伝道者の書』 は、「一切は空しい」ということを語りかけてきます。
しかし、聖書の冒頭に置かれた『創世記』に明らかなように、この世界は神によって創られました。
その観点を当然有するであろうこの巻の著者が、被造物(神によって創られたもの)の集積である世界を「空しい」と言っているのかといえば、そうではないでしょう。
アダムとエバから入り込んだ罪によって、被造世界は、壊れてしまいました。
しかし、壊れたのは、被造世界の“姿”や“原理”ではなく、被造世界の“受け取り手である人間の性質”です。この性質が、いわゆる“原罪”です。
すごく短く説明するならば、
〈 大自然の綺麗な景色は、神の作品であるから美しいのであるが、
「綺麗な景色だ…」と感動したまま、その創り主に心が向かわない。〉
この状態が、(人間の本来性が)“壊れてしまった”状態なのです。
世界にある被造物の美しさなどを通して、神が自身をあらわすことを“一般啓示”といいます。
人間が神を讃美する(神の存在を讃える)うえで、被造物が啓示の役割を果たすというのが、本来の在り方。
この本来性が壊れてしまっているのが、罪の結果です。
この巻にも(どの巻においても)明らかな聖書が語るメッセージを私が端的に表現すれば、「“世”のほうを向いていないで、それを照らしておられる“神”のほうを振り向きなさい」という一言に尽きます。
このことを道徳的に説明するならば、「恩知らずではいけません」という訓戒になるでしょう。
体験的に説くならば、「綺麗な景色の創り手への感謝は、いっそう感動的だよ」という呼びかけとなります。
伝道者の書 は、「“この世的な価値観”は朽ちるものであるから空しい」と言います。
この価値観は、神を忘れている状態のことであり、それは、“物質主義”や“科学信仰”、“多神教崇拝”といったものです。
人の手がつくった物体、神の力を人間が図式化したもの、人間が彫った偶像
このようなものに関心を向けることは、「空しい」。
この“空しさ”というのは、言い換えれば“本質的でない”あるいは、“本来的でない”ということになるでしょう。
確かに聖書は、創造主に背を向ける人間の罪を厳しく糾弾します。
しかし、それを、
神への立ち返りについて
「そうでなくてはならないから」と勧告しているのでなく、
「そうあるのが素晴らしいから」と勧めている
というように受け取り方を変えると、イメージがだいぶ違うのではないでしょうか。
聖書は、“愛である神”が、選民イスラエルを通して、人類を救済するためにもたらした聖典です。
神は、器として選ばれたイスラエルには、愛の鞭を振るう厳しい父としての姿をみせます。
しかし、今、聖書を手に取(ろうとしてい)る私たちは、
いわば、
「兄弟が叱られているから、その痛みが無駄にならないためにも、姿をただそう」
と思える立場にあるのではないでしょうか。
あるいは、
試練があった時、そのことに意味を見出そう
と思えるのではないでしょうか。
辛いことがあったとき、それが辛さのままで終わらないのが、キリスト者の生き方です。
勘違いされやすいですが、
「死後に云々~」というのがキリスト教の救いではありません。
すべてのことから“空しさ”が消えてゆく。
すべてのことが“意味を持つ”ようになる。
「生きるということ、存在するということが輝き出す」。
この、神の恵みを(生きながらにして)実感することが聖書の“救い”なのです。
これは、私の実体験に基づく話でもあります。
このメッセージが誰かにとって、有意味なものになったら嬉しいです。
今日はここまでです。ありがとうございました。