『イザヤ書』に始まる預言書。次の『エレミヤ書』と『エゼキエル書』の間に置かれているのが、イスラエルの民が捕囚される中で、その嘆きがうたわれた『哀歌』です。
アッシリアとバビロンによる、北イスラエル王国と南ユダ王国への攻撃。著者については諸説ありますが、 エレミヤの哀歌 とも呼ばれるこの書は、エルサレムの陥落をまさに「哀しく」記しています。
イスラエル民族を約束の地に導き入れたのは、神がイスラエルの民と契約を結んだことの成就でした。
では、それがどうして崩れたのか。原因は、イスラエル民族の一方的な背信によるものです。
神は、預言者を通して幾度となくイスラエルの民を戒めてきました。
最も顕著なのは、偶像礼拝についてです。中でも“バアル礼拝”は、儀式と称した淫行にとどまらず、子供を生贄に捧げることさえも行う、身の毛もよだつおぞましいものでした。
唯一にして最高善である神が、そのような悪行、ましてご自分の選んだ大切な民の愚行を看過されるはずありません。それでも、どこまでも忍耐強く、預言者を遣わして、警告を繰り返してきたのです。
多くの無神論者は、「イスラエル民族は、捕囚されたのに、神の民と言えるのか。もし、神の民と主張するなら、神そのものがいないのではないか」と、聖書の歴史的な流れを無視して、一時的な事象だけを取り出します。
そのゆえに、聖書に対して偏見を持っている人(以前の私が、まさに当てはまります)は“永遠の観点から歴史を見ておられる神”を理解できないので、結果的に、“人間にとって都合のいい概念”としてしか神を捉えることができないのです(“神”の名を軽んじて用いる、近頃の浅はかさ極まりなき人々の発言に、私は憤りを禁じ得ません)。
神を知らなければ(A)、神を知ることはできない(B)。
神を知ることは(C)、神を知ろうとしなければできない(D)。
と私は思います。難しい表現ですが、
神がどのような存在であるかという“理解”がなければ(A)
神が“どのような存在であるか”が、いつまでも分からない(B)
しかし、
人間の狭い視野によって、“超越的”な神を知ろうとしても(C)
人間の視野では把持できない超越性を“認める”姿勢がなければ神への道は開けない(D)
神を知ろうともしないで、否定することには全く意味がなく、
「神は人間の知を超えているから、人間は神の全てを知ることはあり得ず、その意味において、論理構造的にも、神を否定することは不可能である」
のであり、
「否定から入ったら、“肯定の極”である神は、絶対に知り得ない」
と私は考えます。
では、どうしろと?
その問いかけへの一歩となるのが、今回の箇所(『哀歌』3章32節)です。
<神は我々を懲らしめても、憐れんでおられる>
という趣旨のことが書かれているので、ぜひ、ご自分で引いて、
前後の文脈を踏まえて読んでみてください。
聖書全体を通してこの箇所をみると、
捕囚という出来事は、
イスラエル民族にとって悲劇であること
より、はるかに
神にとっての悲劇であった
と解ります。
とめどない神の嘆きが、各巻、記者の手を通して綴られています。
そして、神は預言者に、
捕囚からの解放も告げさせていて、事実そのようになりました。
ですから、当該の聖句から学べることは、
神の計画は、“どこまでも思慮深い”憐れみに基づいていて、
それは我々の側に“俯瞰的な”受け取る姿勢がなければ、
“単なる”懲らしめに見えてしまう
ということです。
だから、私は
まず、否定から入るのをやめることを勧めます。
しかし、
それは決して、“異端宗教的な勧誘ではありません”。
「盲信せず、知的に聖書を読む」
歩みの紹介です。
どうして?なぜ?
そういうことばかりに思えるから、「キリスト教は気休めだ」。
それは違います。
気休めとは、
どうして?なぜ?
と感じながら、そのことと向き合わず、
聖書を開きもしないこと
ではありませんか?
無理に読まなくていいです。それは本来的ではありません。
でも、分からないものを、そのまま投げ出し、
知りもしないものを否定するのは、
なんだか野暮ったく思えて、私にはできません。
ただ、誤解のないよう、私に弁明させてください。
かくいう私、偉そうにしながら、
どこまでも妥協してばかりの信仰生活なのです。
「知ったように言ってるけど、聖書を何回通読したの?」
はっきり言って(質は別としても)、片手で数えられます。
ですから、
私は、未信徒の読者さんを責めているのではなく、
本当のところ、
“気を締めるために自分を諫めている”のです。
求道中の青い私にお付き合いくださり、感謝します。
どこへ行き着くかは、神のみぞ知る。
しかし、どう行くかは自分たちで決める。
今日はここまでです。ありがとうございました。