『哀歌』の次に置かれた『エゼキエル書』。背信のイスラエル民族への叱責と、信仰共同体が回復へ向かう予兆が、“幻”や“譬え”などの描写を織り交ぜながら語られています。
その13章では、“偽預言者”への警句が記されています。
聖書には、偽預言者が度々出てきます。その場面は、多くの場合、自らを偽って民たちに都合のいいことを言う数多の偽物に対して、神から召された真の預言者が一人で立ち向かうという構図です。
王たちがイスラエルを治めていた時、捕囚といった大事件を含めた神の裁きを、恐れと格闘しながら予告していく預言者の姿は、非常に印象的です。
どのくらいの人が誤解しているか分からないのですが、聖書に登場するのは、“予”言者ではなく“預”言者です。聖書では、いわゆる“予言”といった占いのようなものは(おそらく呪術として異教や悪霊と繋がってしまうため)禁止されています。
一方で、預言者とは、神の言葉を“預かる”者 という意味です。神は、歴史の全てを握っておられますから、その言葉を受け取る預言者には、自ずと、このあと何が起こるかが知らされるというわけです。
予言者に対して(真の)預言者が語ることは、未来における成就の確実性(100%)という点がまず違いますが、決定的なのは、その立場にあると私は思います。
「予言者は未来のことを予知して語る」のでしょうが、「預言者は神の言葉を語る」のです。
そこにあるのはつまり、
“人間的な不確定の呪術”と“神の絶対的な指示”という対比であり、
“利益追求のために他者を不安にさらす排他的な利己主義”と“自らの命さえも危機にさらす徹底的な利他主義”という真逆の方向性、
“個人的な現象を根拠にする”ことに対して“神を拠り所とする”という正確性とそのゆえの責任の有無 …
などであり、挙げたらキリがありません。
そういったことを踏まえて、
予言者と偽預言者というのは、かなり近しい関係にあると言えるかと。
ただ、偽預言者は多くの場合、“自分の考え”に基づいて偽りを語っているのに対して、予言者は(おそらく)“霊的な現象”を根拠にしているところが違うと思います。
しかし、霊的な事柄は、神への堅い信仰を持っている者でさえ悪霊の干渉を受けることを鑑みれば、健全なものとは決して言えないでしょう。
さて、この世には、多くの宗教があります。“宗教”という言葉そのものはよいものであるはずが、まさしく“偽物”のせいで、その言葉の価値が貶められています。
そのような時代においては、キリスト教は「“キリスト教”とカテゴライズされるべき」だと私は考えています。
より徹底して言えば「カテゴライズを抜け出たものであるべき」だと。
様々な“宗教”があり、良くも悪くも信仰の自由が保護された時代です。
正統なキリスト教の思想は、“全てが神の恵みによる”という考えなので、「キリスト教を信じなければ地獄に行きますよ」などという謳い文句は見当違いもいいとこです。
そういう人の主張は、まず間違いなく“人間のわざによる”救いという間違った考えに基づいているはずです。
キリスト教の救済は、“救世主による贖い”を信じるところにありますが、
「地獄に行きたくないからキリストを信じる」という姿勢の人が、“十字架の贖い”を本当に信じることが出来るかというと、
聖書における救いの構造が“自己愛”と対になる“隣人愛”に基づいている理解によれば、難しいと言えます。
なればこそ、
“信仰を勧める”ときに、「それが自分の功徳を積むことだから」といったような似非宗教的なことでは無意味なわけです。
そのような“勧誘”をしている限り、当人こそ救いからは遠いでしょう。
まして、とんでもなく恥知らずで畏れ知らずにも自らを神と自称したり、キリスト教のフリをしつつ反キリスト的な活動をしたり…。
そのようなことが、どれほどの大罪か。
“偽預言者”という概念は、そのまま今の世界にも適用されます。
気をつけましょう。何に気をつけるかといえば、「理性を失わぬように」です。
人の言葉を鵜呑みにしてはいけません。当然、私の言葉も。
救いという言葉につられ、安易に流されてはいけません。
「救いというのは、どこまで行っても、“神との個人的な関係”の回復に懸かっています」。
我々にあるのは“そのタイミングが、どこにあるかという違い”だけです。
人には、用意された“機”があります。
最も悲劇的なのは(洗脳的な宗教のせいで、)「自分が自分でなくなること」です。そうなったら、“この自分”の回心による救いは失われますから。
理性は、“賜物”です。
「“自分”である限り、然るべきときに、何かが判るはず」です。
この場が、その一助になれば嬉しいです。
今日はここまでです。ありがとうございました。