2.聖句の悦び

富ゆえの高慢。(参考→エゼ28:5)

『エゼキエル書』の28章5節では、ツロ(ティルス)への神の介入について記されています。

ツロは、フェニキアで栄えた港町で、イスラエルと軍事的に衝突した記録はなく、むしろヒラムという王が治めていたときには、ダビデ、ソロモンと二代にわたる交流がありました。

ツロが属する文化圏では、エジプトのように王が神と結びつく宗教思想はありませんでしたが、エゼキエルの時代にはそうではなかったようです。

当該の聖句によれば、交易によって栄えたあまり、王が高慢になり、自分を神と同一視したということで(ぜひ28章をひいてみてください)、おそらくこれは原因の一部分と思われますが、“真なる唯一の神”からの裁きを招きました。

少しまわり道をしてお話ししますと、

「聖書を字義通りに読むのをどこまで突き詰めるか」というのは、非常に難しい問題です。

たとえば、民の要望でイスラエル最初の王となったサウルは、神の命令により、預言者サムエルを待つことになっていましたが、定められた時間が差し迫っていたので焦ってしまい、結果、器として不適格とされ、そこから霊的(神との関わりの状態)に支障をきたすようになります。

(敢えて“本来避けるべき私的解釈”をしますと、)

聖書をそのまま読むと、サウルの堕落については、明らかにここが起点なのですが、王としての彼の振る舞いを“俯瞰して”みると、「“きっかけ”とされる記述の背後には、その人物の本性的な欠落があらわれている」ということが見えてきます。

サウルについて言えば、「王として神の応答に順ずる姿勢がなかったことが、サムエルを待てなかったという一つの出来事に顕在化している」ということです。

「ツロの王が裁きの対象となり、その影響が国家全体に及ぶ」というのは、一見すると不可解ですが、以上のような観点からみると、王の統治が国に及ぶ以上、民の道徳的レベルが地に落ちていた可能性は十分考えられます。王が神を自称するならば、自ずと、民は王を神として崇めてしまうからです。

このように、聖書は、神の統治を“否定的に読めばそのように”、“肯定的に読めばそのように”受け取れるところがあります。

理由を考えて読むと、「神は、このようなことを想定なさったのだろう」と思ったりするところはありますが、

「神の統治を、ただ肯定するのでなく、“完全なもの”と肯定して読む」ならば、「文字通りに読んで、その理由については、“神の知に人間は及ばない”」という姿勢をとる(勝手な詮索は控える)こと

が(実際に、神の知に触れようという姿勢で聖書を読んでいた者としての反省を踏まえて、)一番安全だと私は考えます。

というのも、「富が人を狂わせる」というのは、まさに今回の該当箇所でも書かれていますし、日常にもよく言われることですが、“富”というものも必ずや物質的なこととは限らないと思うからです。

イエス・キリストは、「この世での一時的な物質的繁栄が、死後の世界で何の役に立つだろうか」という趣旨の発言を、福音書で述べています。

そのように、聖書からは“物質主義”が極めて危険であることが受け取れます。

個人的に、今、世の中が少しいい方向に向かっていると感じるのが、「物質的な繁栄よりも、心の豊かさを求める人が増えてきたこと」です。この流れは、広がってゆくと素晴らしいと思います。

ただ、物質の代わりに心が豊かになって、その行き着く先が「どこから恵みがやってくるのか」というところに向かわないと、非常に勿体ない。

心が豊かになるとは、それが物質的な豊かさを伴っているか否かでなく、本質的には、“価値観が磨かれること”だと思います。

そこまで来ると、真理への門は開かれていると思うのですが、今度は、自らの価値観(≒知恵)という“障壁”が出てくるでしょう。

それは、かのソロモン王が生涯を以って示しているところです。

「誰よりもの知恵」を神から授かり、富も手にした彼が、国家を反映させる方法を間違い、律法で禁ぜられている重婚をし、異教の妻からの影響でイスラエルに偶像礼拝を持ち込んでしまった。

最近、つくづく思います。

「我々は、自分が栄えている時こそ、イスラエルの歴史に学ばねばならない」ということです。

そして、“繁栄”というのは、物質的なことだけとも限らないこと。

「本当の繁栄とは何か?」という高次の段階に来た時こそ、「それは神に依り頼む姿勢を保っていることである」という大原則に気づく必要があると、キリスト者として私は思います。

それは、「神への畏れが何よりの知恵である」との信条があるからです。

「繁栄に気をつけるとは、それが何か問うことであり、その答えを聖書に求める姿勢であるべきだ」

と押し付けがましいですが申し上げて、結びたいと思います。

今日はここまでです。ありがとうございました。

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