捕囚の時代。ダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤという四名のイルラエル人が目覚ましい活躍を見せるところから始まるのが『エゼキエル書』に続く『ダニエル書』です。
中盤以降は、ダニエルと捕囚先の王とのやり取りと、象徴的な幻による預言が書かれています。
今回は、その2章について追ってみたいと思います。
悪夢に悩まされていたバビロンの王ネブカドネツァルは、才気あふれるダニエルの解き明かしによって安堵しました。
彼のはたらきは、エジプトで宰相になった、ヤコブの息子ヨセフに重なるところがあり、“神が時に適った人を賜物とともに器として据えられる”ことが窺えます(この原則は、今を生きる我々にそのまま当てはまります)。
さて、イスラエルの神を讃えたにも関わらず、バビロンの王は、間もないうちに金の像を造り、民に拝ませるよう命じました。偶像礼拝を強要したのです。
王の命令が出たときに宮廷に居合わせてしまったダニエル以外の3人は、そこで真の信仰というものをバビロンにまざまざと見せつけます。
偶像を拝むことを断固として拒否した3人は、王の怒りによって予定より七倍(象徴的数字と思われます)に熱くした燃える火の炉に投げ込まれます。
王が様子を見届けようとしていると、なんと、中に居るのは“4人”で、平然としています。御使い(神の使者で、天使や受肉前のキリストを指したりします)が、彼らを守ったのです。
3人が全くの無傷で炉から出てくると、ネブカドネツァルは、イスラエルの神が持つ力に圧倒され(神による獣化妄想の裁きを受ける前で、自身は未だ多神教崇拝から抜け出していなかったですが)、信仰を公認することにしました。
私は、この箇所を読むたび、敬虔さに絶対的な力で応える唯一なる神の権能はもちろんながら、命を惜しまない3人の信仰に驚きます。
彼らには、神が救ってくださるという確信があったことが投げ込まれる際の信仰告白に見て取れます。
おそらく、この世での命という目線でなく、死後の救いという眺めの前に彼らは立っていたと思われます。
結果的に、この世での命が救われた彼らは、その身を以て、イスラエルの神のみに相応しい栄光を、異教の地に表したのでした。
新約の使徒たちにも見られる、迫害や命を顧みないこのような信仰を持てるだろうか。
この問いに対して首をどちらに振るかは、実際に過酷な局面に差し掛かって、どのような態度でいられるかによって明らかになるでしょう。
しかし、そのような状況でなくとも私の答えは決まっています。
「無理です」。
私は、確実に屈します。
少なくとも、今の段階では。
ですから、
「私たちを試みに遭わせないで、悪からお守りください」
という“主の祈り”を毎朝一番に、欠かさず行っています。
信仰に死することは、希望と確信がある人にとっては栄誉でさえあるのかもしれません。
ただ、
信仰に死することに、“引くに引けない事情”がない限りは、私は命を惜しみます。
たとえば、
今の時代にキリスト教禁令が出て“絵踏み(踏み絵)”が実施されたら、私はイエスの絵を踏むと思います。
それは、
そもそも、私がイコン(聖画像)について、「キリストが“三位一体の神”の第二位格である以上は、神をかたどってはならないから、イエスの彫像は本来的ではない」と考えている
ということが一つ。
もう一つは、
「外面(行為という“わざ”)で信仰を否定しても、内面の信仰(神への畏敬のすべて)が否定されるわけではない」という思想があるからです。
ただし、先に述べた、のっぴきならない事態があるかもしれません。
信仰の姿勢を私が行動で示さなければ、多くの信徒が露頭に迷う
それがどのような状況で、起こるかどうかも分かりませんが、
その時に、私はどういう信仰を見せるでしょうか。
分かりません。
でも、
一つ言えるのは、
「かの3人は、自分たちの信仰が、バビロンに影響を及ぼすとは(おそらく)思っていなかった」
ということです。
彼らの行動がこの書に記されたことが、どれだけの信徒を励ますことになるかということも。
それゆえ私は、
見定める力を神に求め、“その時”が来たとき、“その時”にすべき行動を取ろうと心がけたいです。
あるいは、
“その時”は、今かもしれません。
ならば、
キリスト者として、神から与えられた命を大事にしながら、常に懸命な態度で生きる姿勢を以って、福音伝道に励みたいものです。
ある意味では、キリスト者は、“この世での偏見という炉の中”で常に試されているのかもしれませんから。
今日はここまでです。ありがとうございました。