『オバデヤ書』。旧約聖書で最も短いこの書は、そのことに反比例するように多くの思想が凝縮されています。
記述のテーマをなしているのは、“エドムに対する裁き”です。
“イスラエル”と名を改め、その呼称を冠する民族の祖となったヤコブ。エドム人は、そのヤコブの兄エサウをはじめとする民たちです。
聖書に馴染みがない読者さんは、「弟の民族が神に選ばれたんだ」と思ったかもしれません。
アブラハムが住んでいた文化圏でも、“長子の権利”はその名の通り、通常は長男が受け継ぐものでした。
しかし、「神は、時として弱い者をお用いになる」というのが、聖書の特徴でもあります。
「ヤコブは、卑怯なところがある」と解説されることが多いですが、“人間的”と言った方が適切かと思います。
狡賢いというか、計算高いということです。
母リベカの助言を聞き、羊毛を身体につけて毛深いエサウになりすましたヤコブ。老衰で目が衰えた父イサクは、てっきり長男と思い、頭に手を乗せてこの次男に長子の権利を与えました。
ここだけみると、確かに偽っていますが、多くの解説において、“騙し”が強調されすぎている感じがあります。
というのも、弟ヤコブは、このことの前、腹が減ったエサウに「食事を分ける代わりに長子の権利を譲って下さい」と頼み、この兄は“一つ返事で了承している”のです。
つまり、確かに“父イサクとのやり取り”では計略的な面が見えますが、“兄エサウとの間”には実質、嘘のやり取りはなかったのです。
そして、この点こそ大事です。
つまり、
“霊的にとても大切な長子の権利”を
「エサウは、空腹の対価として扱うように軽んじた」
一方で、
「ヤコブは、奪い取りたいほどに重んじた」
という点です。
こうして、霊的な性質を持つヤコブが神の目にかない、彼は“イスラエル”の名と、それを冠する民の祖となりました。
さて、
聖書に登場する民族に限った話ではないかもしれませんが、モーセ五書や歴史書を読むと「民族の性質は、その祖に似る」という原則が明確にみえます。
それが何を表すかというと、
イスラエルの民は、霊的性質(神を重んじる特性)をヤコブから少なからず受け継いでいること
に対し、
エドム人は、肉的性質(人間的な特性)がエサウのように顕著であること(非常に好戦的である点など)
です。
『オバデヤ書』の強調点はここです。
すなわち、
「エドムが裁かれたということは、肉的性質を持つ民族が神に否定された」
という事実です。
以上のことは、今の日本人にそのまま適用されるのではないでしょうか。
島国という地理的文化は、閉鎖の反動から異文化の吸収を促しました。
異国の宗教文化を混ぜ込んで取り入れながら、一度信じたら元来の閉鎖性によって堅持しようとする。
日本人の民族的性質である“頑固さ”と風土的性質の“吸収性”。
この一見すると反対の要素が、“残念なかたち”で結びついてしまったのが日本の状態だと私には思えてなりません。
しかし、この国を神は見放されていません。
もし、そうだとしたら、聖書がこの国に及ぶことはなかったはずです。
それは、神が、この“極めて優れた道徳性を持つ日本人という民族”に期待しておられるからではないでしょうか。
だとすれば、
風土的吸収性という“素直さ”は聖書に向かい、民族的頑固さという“信念”は信仰に行き着くときです。
「人類全体を救済するための中心的民族の祖に次男が選ばれた」ことは、まさに「神は肩書きを選ばない」ことを意味します。
肉的性質に基づいて聖書を拒絶したら、決して霊的な在り方は分かりません。
ただ、まだ知らぬ人々が聖書を手に取れる時代が到来していることは、
少なくとも、
神が救う人を限定しているのではない
事実を証しているでしょう。
“霊的”とか“救い”という言葉に抵抗がある人もいると思います。
それは、異端やカルト、そして自由主義神学の甚大な責任です。
そして、その誤解を解くことが、私の目指すはたらきです。
今日はここまでです。ありがとうございました。