2.聖句の悦び

自分の神と我らの神。(参考→ミカ4:5)

『ヨナ書』の次に置かれた『ミカ書』。南王国ユダの善王ヨタムと、後継の悪王アハズ、リバイバルに奔走した屈指の名王ヒゼキヤ。その統治下で書かれたこともあってか、イスラエルとユダ、それぞれの首都であるサマリアとエルサレムの“滅亡と回復”が語られます。

その4章5節からは、

“自分たちの神によって歩む人々”に対して“我々の神によって歩む人々”の決意

が読み取れます。

“自分たち”の神というのは、異邦の民が崇めていた多神教の神々であり、

“我々”の神は、イスラエルの唯一なる神を指しているでしょう。

“異邦人”と“選民”という立場の中で、

“自分たち”と“我々”という対比の後者には、確信からくる重みを内に感じます。

ただ、旧い約束(旧約)は、新しい約束(新約)に繋がっているはずですから、

この箇所は、異邦の民と選民イスラエルという構造にとどまらないようにみえます。

若干の飛躍を承知で語るのであれば、

これは、宗教構造の普遍性に触れていて、

“自分たちの神”は、“個人の神”と言え、

“我々の神”は、“すべてを治める神”と言えましょう。

今の時代、こと日本において、

“自分たちの神”とは何でしょう。

「天照大神」ですか、「大日如来」でしょうか、はたまた「エルなんたら」でしょうか。

個人の信仰に口出しすべきではないかもしれません。

しかし、

「神はただお一方である」

ことを悟った身としては、

「神が複数いる」

ことを容認しているわけにはいかないのです。

居合わせた酒場(この世)で、

それと知らず酒を飲んだ(多神教や無神論を受容した)人がいて、

その人が酔って(間違いに気付けず)、

路上の穴(“ゲヘナ”すなわち神の国の対)

に落ちようとしている時、

既に酔いが覚めた素面は、その人を放っておけるでしょうか。

キリスト者の心境とは、例えるならそういうものです。

「信仰の自由を尊重する」

という人々。

“そのこと自体”は悪くありません。

しかしながら、

「信仰は自由でいい」

という姿勢を自らがとっている限り、

「自由主義の信仰をする」ことを表明している

と自認すべきでしょう。

「神は人間がつくった概念だ」

という人がいます。

確かに、“神々”はそうでしょう。

しかし、

「人間が構築可能な概念は、すべて複合概念です」

それは、

「“既存”の現象を“組み合わせて”つくる」

ということであり、

それゆえ、

“神”

すなわち、

“存在が極限まで一に近づく、あらゆるものに先立つ全能者”

を人間が考え出すことは不可能なのです。

「私は〇〇神を信じている」

という人には、その存在について“詳細に”説明してみてほしいです。

もしそれができないのであれば、

「盲目的信仰ではありませんか?」ということになります。

無神論の立場をとる人は、どうやら信仰を拒絶したいようですが、

代わりに

“科学信仰”、“自然信仰”、“人間信仰”…

何より、

“「無神論」信仰”

をしていることを認めなくてはなりません。

唯一なる神

は、ご自身の膨大な証を“聖書”として啓示されました。

しかし、その上で、

“受け入れる自由”

を保障されたのです。

「最初から信じられるようにしたらいいじゃないか」

と言う人は、

“その主張の自由が与えられている事実”について考えてください。

同時に、

“そのように主張するなら、信じたらいいと思います”と返答します。

「自分たちの神」。

それは、

現代に当てはめれば、先に述べた

多神教信仰、無神論信仰、科学信仰、人間信仰

などでしょう。

誤解しないでいただきたいですが、

「いずれも、間違ってはいません」。

この点を強調させてください。

「いずれも、間違いではありません」。

私が本当に言いたいのは、

あくまでも、

それは、

「“自分たちの神”の域を出ない」

ということなのです。

かなり荒ぶったメッセージになってしまいました。

しかし、

“我々の神”

が、選民イスラエルから、異邦人すなわち言葉違わず“私たち”にまで及んでいる今、

ふらついている隣人がさらに酒を浴びるのを黙認しているわけにはいかないのです。

今日はここまでです。ありがとうございました。

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