『ナホム書』の次に置かれた『ハバクク書』。アッシリアとエジプトが勢力を失い、バビロニアが台頭してくるという、南王国ユダの危機的状況下に書かれたとされます。
その1章の冒頭では、預言者ハバククの嘆きに対し、神が返答します。
それは、霊的に退廃した南王国に、カルデア人(新バビロニア帝国)を送るという宣告でした。
カルデア人の恐ろしさが語られた後の11節では、カルデア人が“風”のように過ぎ去ることが書かれながら、彼らが“罪”に定められることが明示されます。
その理由は、
<自らを神とみなした>
ところにありました。
選民イスラエルでさえ、ソロモン王が築いた栄華によって傲り、偶像崇拝を持ち込んだのです。
まして、そもそも真の神を知らず、侵略にしか能のない野蛮な民であれば、
大国として力を持った時に“勘違いの極み”に至るのは自然です。
イスラエルの過ちを罰するときに、野蛮な民を用いるというのは、
この世的な思考では、なかなかに理解し難いことです。
「神がイスラエルと共にあったなら、バビロン捕囚など起こり得ない」
と考える人もいるでしょう。
しかし、
聖書理解に基づけば、理由はシンプルかつ明確で、
1.唯一なる神と契約を結んだ民はイスラエルしかいなかった(ゆえに、どうあっても裁きに際しては劣等な民を用いる他ない)
2.神はイスラエルと共にあったが、イスラエルが一方的に契約を破った
の二点にあると言えます。
神は、“義”そのものなるお方であり、“愛”そのものです。
「契約は、愛によって結ばれ、義によって保たれます」。
このことが意味するのは、
“義”なる神がイスラエル(および、全人類)を“愛”しておられる以上、契約は生き続けるということです。
だからこそ、バビロン捕囚は一時的なものでしたし、旧約での諸契約はキリストによって成就しました。
神は常に契約を守っておられます。破るのは、一方的に人間の側なのです。
それでは、
異邦の地にいる我々は、イスラエル民族の契約の外にいるのでしょうか。
聖書は、救いが異邦人にまで福音が及ぶことを明確に語っています。
その救いが、キリストの贖いに依っているならば、
十字架を見上げたとき、我々も神との契約を結ぶことになるでしょう。
しかし、先に述べたように、契約は愛によって結ばれます。
神は全人類を愛しておられますから、
救済契約の締結は「私たちが神の愛に応答するか否か」にかかっています。
神が人類を愛していることは、
旧約において、神はアブラハムが息子イサクを捧げることをお止めになった一方、
新約において、神ご自身はその独り子イエスをお捧げになった
という事実に極致として現れているでしょう。
それでもなお、
そのような神を受け入れるか否かは、“選ぶことができる”のです。
それは、
「選択権が双方にあることによって契約が成立する」
という原理が踏襲されているからであり、
そのルールを不完全な人間に対して適応なさる神が、“義”そのものである
ことは理解に難くありません。
だからこそ、
「自分たちが神である」
と人間が主張することが、どれほど愚かしいことかが分かります。
もちろん、
全てを治めておられる権威者の御思いを踏みにじるという恩知らずな愚かさ
もあります。
しかし、決定的に致命的なのは、
“契約を結ぶべき相手を拒んでいる”
点です。
人間は、善と悪の二項対立によっては区別できません。
善悪は、人間、
より正確に言えば“個々の人間”の思考能力が捉える範疇に依存するからです。
だからこそ逆に、
「善も悪も、決めるのは自分なんだから、俺が神だ」
なんていう主張は成り立ちません。
というのも、
もし自分が神であるならば、善と悪の判断を迫られる状況にあるのはおかしくないでしょうか。
選択するには、選択肢がなければなりませんし、
選択肢の前に、意思決定の権利がなくてはなりません。
では、
それらは、どこから来たのでしょうか。
「もし人間が自らを神と称する(=神となる)ことが可能であれば、“人間”として行動する(=自称する)選択肢を喪失するはずである」
これは、論理構造上も正しいでしょう。
ここで言う“選択肢”には、
真実なる神への信仰による救済の道
という命運がかかっています。
自らを誇る。なればこそ、
その自分を、
自由意志の付与によって尊重してくださる神を愛すべきではないでしょうか。
選択はいつでもできます。
焦らなくていいとも思います。
でも、今できる素晴らしい選択を、わざわざ先延ばしにするのは、
私には勿体ない気がします。
“与えられた”自由意志によって選び取る権利が、我々にはあります。
今日はここまでです。ありがとうございました。