『ハバクク書』と『ハガイ書』の間に置かれた『ゼパニヤ書』。
執筆年代は、南王国で最悪の王マナセとその性質を色濃く継いだ悪王アモンによって、国が霊的に悲惨な状態になったところから、名王ヨシヤの目覚ましいリバイバルが起こったあたりとされています。
ヨシヤ王による霊的復興に際して書かれたこともあり、偶像礼拝から始まる民の悪に、神が懲らしめを以ってあたられることが強調されています。
その1章12節では、イスラエルの民が言っていることを神は嘆きます。
<神は幸いも災いも、もたらさない>
これが、神に選ばれた民が発する言葉でしょうか。
人間による統治を神が憚り、その見通しどおり、悪王によって人々の信仰がどれだけ酷いありさまになっていたかが分かります。
本節で取り上げられたイスラエルの妄言は、現代に通じます。
それは、科学法則を崇めることに始まる、“神を人間レベルに引き下げる”という考え方です。
「神は、我々に対して、気まぐれである」
という、多神教的な忘恩きわまりない姿勢。
あるいは
「神は、我々に対して、何もできない」
という、無神論的な不遜の態度。
いずれも忌避すべきものです。
「神は良いことも悪いこともしない」
との趣旨に基づく誤解は、人間優位の愚かしい考えです。
これは、
「神が善をもたらす存在ならば、悪が起こることはあり得ない」
という、考えることを破棄した短絡的な論。
一例が、ゾロアスター教に始まる人間的な二元論宗教。善と悪の対立を強調します。
確かに、善神と悪神がいるとすれば、説明は容易でしょう。
しかし、問題は“そこにこそ”あります。
つまり、「“善と悪がどのように発したか”との原因に対して唯一なる神という真理を曲げて答える」という誤謬です。
確かに、
“不条理”なことがあり、「全知全能の神がいるなら、こんなこと起こるはずない」…(A)
と考えるのは、信仰を持っていない人の思考として理解できます。
(それというのも、私がまさにそうだったからです)
ただ、先の命題(A)は正しいでしょうか。
つまり、
「“こんなこと起こるはずない”という判断はどこから来ているのか」
ということです。
結局のところ、人間が有限の視野に基づいて、「こんなこと」と言っているのです。
たとえば、
「淫らなものを画面越しに見たら罰せられる」
という法がある国に、日本人は住めますか?
大きく首を縦に振れる人はほとんどいないのではないでしょうか。
少なくとも、恥ずかしながら私は“まだ”そのような立派な態度は取れません。
“絶対的な善の基準”がある時、
自分の逸脱には目を瞑り、被った罰には反応する
これが、人間の罪です。
「神が悪の存在を許すはずがない。だから神はいない」…(B)
神が最高善である前提に基づくこの命題。
最高善を否定するのですから、(B)の立場は“悪”でしょう。
ならば、その出所はどこでしょうか?
〈我々が邪な考えをするのは、神が完璧だからではないだろうか〉…。
アダムの堕落によって、被造世界(この世)は壊れました。
しかし、そのようなことは、神にとってはご計画のうちです。
言うなればそれは、自由な意思決定というギフトの授与式です。
「都合の良い時は神を出し、都合の悪い時は悪魔を持ち出す信徒」
とは、何ということか。
「都合の悪い時に神を思い出し、都合の良い時は神を忘れ悪魔に堕する罪人」
というのが正確でしょう。
悪は影のようなものです。そもそも光がなければできないのです。
もし世界に悪が先行していたら、そこに善を見出せるだろうか?
おそらく、頷けないでしょう。
しかし、
世界に善がまずあるから、ときに悪が表出する
ことには納得せざるを得ない。
なぜでしょうか。
「悪は善の欠如であり、悪に対しては常に善が優位性を持っているから」です。
善と悪の二項対立は、相対的な世界にあって生ずる。…(1)
この世界では、存在という概念が善性を有するゆえ、善が悪に先行する。…(2)
すなわち、相対的な世界においては、善が悪に先立つ。…(3)
ならば、相対の場において、絶対性が働いているはずである。…(4)
∴ 絶対善である神が存在権を握っていることが明らかである。
(2)に注目してみましょう。
存在することが善性を持っていなかったら、
我々は、自分が悪であることを認めねばなりません。
ですから、
我々が自分を善悪の判断基準にするためには、
存在を肯定する必要があり、その価値を付与する絶対者を認めねばならないのです。
世界は、時に残酷です。
しかし、本当に残酷なのは、一時の判断に身を任せること。
苦しみに際しても、いっそうの幸を与える
そのような神の愛を否定することです。
鬱陶しいメッセージだったかもしれません。
でも、私が嫌われて、神が愛される
それが本望とさえ思うのです。
今日はここまでです。ありがとうございました。