小預言書に数えられる『ハガイ書』。その使信は、バビロン捕囚から帰還した民に対して、神殿再建の活力を与えることでした。
この書の2章10節において、神から「祭司たちに律法について尋ねよ」との言葉がハガイに臨みます。
聖書巻頭からの五巻を“モーセ五書”と呼ぶことは、ご存知の方も多いと思います。
そのうちの レビ記 には特に、イスラエルの、聖と選ばれた民が踏襲すべき律法がこと細かく規定されています。
旧約では、この“律法”がいたるところで強調されますが、
このルールに従うことが、イスラエルにとってのアイデンティティであり、
それが刷新されて異邦人にまで及ぶのが、神のご計画です。
そして、そのゴールは、伝わる“べき”すべての人に福音が届くことなのです
(福音とはつまり、「キリストの贖いによって、“律法”が“わざ(行動)”に基づくものから“(信仰による)恵みへの応答”に依るところへ完成した」という“喜ばしい知らせ”です)。
さて、
旧約の律法では、「命がなくなったものに触れると、汚れてしまう」という定めがありました
(このことは、「死体を忌避されるものと断定しているのでなく、命の清さを強調している」と取るべきでしょう)。
今回の箇所では、その点に基づき、
<聖別された(清められた)ものが、他のものに触れたら、清くなるだろうか。否である>
しかし、
<汚れたものが、他のものに触れたら、汚れるのではないか。そうである>
という旨のことが書かれており、
神は、
その状態がイスラエルに適用される
と叱責しています。
私は、この箇所をみて、
「霊的な事柄でないことにさえも、この原則は適用される」
と感じました。
とても徳がある人の語ることに触れたら、確かに成長するでしょう。
しかし、仮に、その語り手の徳が完成されていたとしても、聞き手にその全てがうつることはありません。
一方で、逆はどうでしょうか。
プラスの要素(善や徳)というのは、言うなれば“付加価値”です。
ゆえに(その人の根っこが変わることもあり得ますが基本的には)、
その人の“性質そのもの”が清くなることはありません。
それに対して、
マイナスの要素(悪や不徳)というのは、いわば“侵食細菌”です。
「⚪︎⚪︎の人が××をしたうえに△△で~」
と、
聞き入った(相手にした)時点で、その相手の戯言に“付き合う(コントロールされる)”ことになるのです。
水に塩を入れたら、食塩水になりますが、それは水でしょう。
しかし、
水に泥を入れたら、汚水です。もう、飲むことはできません。
自分が誰かの不徳を語ることに、明確な目的があるならばいいと思います。
しかし、誰かの不徳に、「それは間違っている」と“いちいち”指摘して自己肯定感を増す行為は、
無意味であるどころか、害です。
だから私は、最近見かける「同調系(スカッと ですか?よく分かりませんが)」の話に不快感しか覚えません。
もし、自分が声をあげることで、変わる相手だとしたら、
そもそも、そんなに深入りすることもないはずです。
さて、少し遠回りしましたが、
私の主張したいのは、ここです。
私が、「霊的に云々~」とか、声をあげるのは、
「そのことに確固たる意味を感じるから」だということです。
そこには、
キリスト教が、“善と悪”を基準にしているのでなく、“義か不義か”という視点に立っている
という明確な土台があります。
先に述べたことに繋がりますが、
汚れはうつります。
しかし、このことは、キリストの贖いに通ずるのです。
イエス・キリストは、聖霊によって身篭った処女マリアから生まれました。
それは、キリストが人性と神性の両方を持っていたことを意味します。
イエス・キリストが十字架にかかったことは、
「人間の罪(汚れ)を負った(うつし渡された)神(復活がその証拠)として、キリストがそれを贖ったこと」を意味するのです。
だからこそ、
我々は、そのことを信じることによって、
善悪という基準を離れ、“義”と認められるのです。
そのゆえに、律法は、わざ(行為)基準から信仰基準へと完成されました。
「未信徒が“間違っているから”云々~」
という立場で私がエッセイを書いていたら、
俗世的な域を出ません。
しかし、私は、
「信徒は“知っているから”~」
という経験(体験)を記しているのです。
「“正誤”ではなく、“真否”」なのです。
“徳”は人からうつりません。しかし、“義”は神から与えられます。
キリストを通した神の恵みは、人を真水へと濾過します。
その真理に至れるよう、
この記事を読んでくださる人を、私は相手にし続けたいのです。
今日はここまでです。ありがとうございました。