2.聖句の悦び

汚れはうつる。(参考→ハガ2:12‐14)

小預言書に数えられる『ハガイ書』。その使信は、バビロン捕囚から帰還した民に対して、神殿再建の活力を与えることでした。

この書の2章10節において、神から「祭司たちに律法について尋ねよ」との言葉がハガイに臨みます。

聖書巻頭からの五巻を“モーセ五書”と呼ぶことは、ご存知の方も多いと思います。

そのうちの レビ記 には特に、イスラエルの、聖と選ばれた民が踏襲すべき律法がこと細かく規定されています。

旧約では、この“律法”がいたるところで強調されますが、

このルールに従うことが、イスラエルにとってのアイデンティティであり、

それが刷新されて異邦人にまで及ぶのが、神のご計画です。

そして、そのゴールは、伝わる“べき”すべての人に福音が届くことなのです

(福音とはつまり、「キリストの贖いによって、“律法”が“わざ(行動)”に基づくものから“(信仰による)恵みへの応答”に依るところへ完成した」という“喜ばしい知らせ”です)。

さて、

旧約の律法では、「命がなくなったものに触れると、汚れてしまう」という定めがありました

(このことは、「死体を忌避されるものと断定しているのでなく、命の清さを強調している」と取るべきでしょう)。

今回の箇所では、その点に基づき、

<聖別された(清められた)ものが、他のものに触れたら、清くなるだろうか。否である>

しかし、

<汚れたものが、他のものに触れたら、汚れるのではないか。そうである>

という旨のことが書かれており、

神は、

その状態がイスラエルに適用される

と叱責しています。

私は、この箇所をみて、

「霊的な事柄でないことにさえも、この原則は適用される」

と感じました。

とても徳がある人の語ることに触れたら、確かに成長するでしょう。

しかし、仮に、その語り手の徳が完成されていたとしても、聞き手にその全てがうつることはありません。

一方で、逆はどうでしょうか。

プラスの要素(善や徳)というのは、言うなれば“付加価値”です。

ゆえに(その人の根っこが変わることもあり得ますが基本的には)、

その人の“性質そのもの”が清くなることはありません。

それに対して、

マイナスの要素(悪や不徳)というのは、いわば“侵食細菌”です。

「⚪︎⚪︎の人が××をしたうえに△△で~」

と、

聞き入った(相手にした)時点で、その相手の戯言に“付き合う(コントロールされる)”ことになるのです。

水に塩を入れたら、食塩水になりますが、それは水でしょう。

しかし、

水に泥を入れたら、汚水です。もう、飲むことはできません。

自分が誰かの不徳を語ることに、明確な目的があるならばいいと思います。

しかし、誰かの不徳に、「それは間違っている」と“いちいち”指摘して自己肯定感を増す行為は、

無意味であるどころか、害です。

だから私は、最近見かける「同調系(スカッと ですか?よく分かりませんが)」の話に不快感しか覚えません。

もし、自分が声をあげることで、変わる相手だとしたら、

そもそも、そんなに深入りすることもないはずです。

さて、少し遠回りしましたが、

私の主張したいのは、ここです。

私が、「霊的に云々~」とか、声をあげるのは、

「そのことに確固たる意味を感じるから」だということです。

そこには、

キリスト教が、“善と悪”を基準にしているのでなく、“義か不義か”という視点に立っている

という明確な土台があります。

先に述べたことに繋がりますが、

汚れはうつります。

しかし、このことは、キリストの贖いに通ずるのです。

イエス・キリストは、聖霊によって身篭った処女マリアから生まれました。

それは、キリストが人性と神性の両方を持っていたことを意味します。

イエス・キリストが十字架にかかったことは、

「人間の罪(汚れ)を負った(うつし渡された)神(復活がその証拠)として、キリストがそれを贖ったこと」を意味するのです。

だからこそ、

我々は、そのことを信じることによって、

善悪という基準を離れ、“義”と認められるのです。

そのゆえに、律法は、わざ(行為)基準から信仰基準へと完成されました。

「未信徒が“間違っているから”云々~」

という立場で私がエッセイを書いていたら、

俗世的な域を出ません。

しかし、私は、

「信徒は“知っているから”~」

という経験(体験)を記しているのです。

「“正誤”ではなく、“真否”」なのです。

“徳”は人からうつりません。しかし、“義”は神から与えられます。

キリストを通した神の恵みは、人を真水へと濾過します。

その真理に至れるよう、

この記事を読んでくださる人を、私は相手にし続けたいのです。

今日はここまでです。ありがとうございました。

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