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あとがきに代えて

ーさて、ここからは信徒になってからの学びを簡潔にお伝えしたいと思うー

この『信闘録』で示したかった最重要テーマは「神の摂理」です。そして、「神の摂理(統治法)において“輪廻”という世界構造はあり得ない」ということが最重要の“経験談”です。“「輪廻はない」と体験的に語れる人間”は、いないのではないでしょうか。私は自分の半生が、アキレス(踵)に憧れたアレクサンドロス大王と,兄エサウの踵を掴もうとしたヤコブに重なる.ことをあえて“象徴的に”描きました。しかし、その趣旨は「生まれ変わり」のような“象徴的な”出来事はあっても、「生まれ変わり」“そのもの”は「ない」ことを示す点にこそあったのです。聖書における救済観で大切なことは“「一回限り」という時制”です。神の救済にセカンドチャンスはない。けれども、それは残酷なことではなくて、それだけ神が「人生を一度限りのものとして尊重しておられる」ということなのです。ただ、“陰府”(よみ)という世界の詳細を聖書は語っていません。「この世界(人生)で救われること」を考え、「この私(愛を受け継いだ自分)が救われること」を以って“故人の救済可能性を示す道”が最善手だと私は思うのです。

 

福音の三要素は聖書全巻の要約である

聖書における救済は、原理的には「“福音の三要素”を信じること」で成されます。救いは“信仰による”ということが重要です。その三要素とは,1)イエスは私たちの罪のために死なれ,2)墓に葬られ,3)三日目に甦られた.ということです。この三要素は,(1)は預言書によって語られた贖罪のメシアが、歴史書で保証されたユダ族から出たナザレのイエスであること,(2)は知恵書で歌われたようにキリストが受難を通られ、福音書に書かれた公生涯を辿られたこと,(3)は使徒たちが書いた主イエスによる贖いの神学を受け取り、黙示録における復活を望むこと.これらを信じるという意味で「聖書全体を過不足ない神の御言葉と信じること」が集約されているのです。大切なのは「“心から”この福音を信じること」であり、そうすると自ずと聖書を通読することが必要になってくるでしょう。自分が福音を義しく理解して信じているかを判断する方法は,イエスを「主イエス」と言えるかどうかです。このことは,キリストが“父なる神(第一位格の神)”から【主】の御名を受け継いだ“子なる神(第二位格の神)”であることを告白することであり、救われた者の内にしか住まわれない“聖霊なる神(第三位格の神)”の御力によってしかできません。

 

最も重要な神概念をきちんと言葉に

聖書には“位格”という言葉は出てきません。先の説明でわからなかった人がほとんどでしょう。これは、神から権威を授かった正統教会が異端とたたかうために「三位一体」として確立した神概念です。「三位一体」という言葉そのものは聖書に出てきませんが、概念としては確かに,父なる神(旧約の【主】)は“第一位格の神”,子なる神(イエス・キリスト)は“第二位格の神”,聖書なる神(新旧約の“御霊”)は“第三位格の神”.として成立しています。しかし、私は“唯一の神が三つの位格を持つ”ことを「この神概念は信仰によってのみ捉えられる神秘であるのだ」として“信仰領域に持っていくのは違う”と考えます。なぜなら、それでは「神の国に至ったときにも説明ができない」ということになるからです。丸投げするのでなく「三位一体の盾」(検索すると図が出てきます)を眺めながら、具体的に光景をイメージすべきです。父なる神が統べ治めておられ,主イエスがその右に着座しながら信徒の長兄としてとりなしておられ,聖霊なる神が信徒のうちに住わっておられる。これらをイエスご自身の発言に発する聖書の御教えとぶつからないように掴む方法はただ一つ。「[神]が絶対的な統治者である,御父・御子・御霊,だけが語ることのできる,“唯一の[称号]”である」と捉えることです。私は実際にこのようにして読んでから、聖書の御教えに躓いたことはありません。食い違うことなく、むしろ、より精確に理解できるようになりました。神概念で聖書に対して“躓いてしまっている(受け入れられない)”人は、試しに私の言ったことを当てはめてみてください。異端とたたかうために確立した紛うことなき“教会史の宝”が、信仰の敷居をかえって高くしてしまっていたとしたら、残念ですから。

 

哲学の本質は考えでなく考え方にある

ギリシャ文明との接触の影響か、キリスト教と哲学にはやや距離があるように感じます。曲がりなりにも大学で四年ものあいだ学んだ者として「哲学がよくないものだ」とはとても言えません。まず、私には「哲学という入り口がなければ回心はなかった」。加えて、どう考えても「神学は聖書に“哲学の手法”を適用させて構築させられたもの」ということ。そして「伝道においては“世の中”と接近する哲学が真価を発揮する」。確かに、“人間的な哲学”に偏ってしまうと、回り道になる危うさがあるのは事実。それでも私は-伝道を志す者として-回り道でも哲学の営みについては肯定したい。聖書の“救い”の根っこがどこかと言えば「いかに納得できるか」にあるから。他の選択肢と吟味したうえで「聖書がいい!」と言ってほしい。そのために、私は“聖書的な哲学”(伝道)を展開します。結論としては「哲学を学んで独自の思想に偏るのはよくないけれども、哲学を用いて求道に大いにいかしたほうがいい」と思います。

 

耳触りよい話が、私たちの何を変えられよう

おかしな宗教思想に走りかけた者として「“作り話”は避けなさい」という教えを強調したいです。先の哲学についての話に繋がりますが、哲学の技法-考える力-は「真偽を見抜くため」に“善用”されるべきであり「真偽を曖昧にして銭にしよう」なんて“誤用”はしてはならない。私自身が、神の召しに生きるか,サタンの手先になるか,危うかったのです。作り話は、一見すると甘美なものです。「耳触りのいい話」のほうが“世間受け”はいいでしょう。でも、麻薬は必ずガタがきます。良薬は口に苦いのです。私は“かつての自分”に言います<「耳に痛い話」を、人に嫌われ、金も取らずに、命懸けで伝えた使徒たちのことを考えてください。「彼らは狂信者で、洗脳されていた」とでも言いますか。新約の書簡を開いたことがありますか。あれほど論理的で理性的な文章が書けますか。もし書けないのなら「世に洗脳されているのが我々だ」ということになりませんか>私は、彼らのはたらきを知りもせずに、使徒パウロと使徒ペテロを馬鹿にしたことがあるのです。なんと愚かなことか。二人のことだけを思っても「報われなければ…」と思わずにはいられない。聖書受け取るかは、どうぞ自由に選んでください。しかし、「救いを求める心を“作り話”に向けないで」ということだけは、お願いしたいのです。順番を間違えないで、どうか、まずは聖書を開いてください。

 

聖書的であることが、聖書道徳を成り立たせる

自由主義神学は聖書的ではありません。それは「自由主義神学は神学ではない」ことを意味します。我々が聖書を学ぶ際には,1)その全体を前提に,2)文脈に沿って,3)字義通りに.解釈する必要があります。付言すると、自由主義神学は“聖書道徳的”です。「聖書のどこかに、誰もが救われる道がないか」と考えることだからです。しかし、そのことで結果的に聖書を曲解したら本末転倒ではありませんか。「どうしたら神の御心に沿えるか」を考えることなしに聖書を解釈することは明らかな“越権行為”です。聖書の御言葉によって愛が完成することを今一度、思い出しましょう。

 

みだりに神を呼ばわることの危険性

聖書には「この世の神」という言葉が出てきます。これは、悪魔の王である“サタン”を指す言葉であると共に「世の間違いを一言で表したもの」です。どういうことか。“世”の人々は、信徒たちが「世界を否定しようとしている」と勘違いしています。なぜわかるか、私自身が辿ったからです。そして、九分九厘、未信徒たちの理解と一致しているでしょう。明言しますが、「信徒が“神の創った空間としての世界(=[被造世界])”を否定することはありません」。そうではなくて「信徒が否定しているのは“神が創った世界を認めない考え方(=[世])”のこと」です。つまり、信徒が「世」と言うときには「世界」のことに言及しているのでなく「世界を神の視点で捉えない価値観」を指しているのです。その意味で、信徒は厭世的どころか、世界を肯定し本来性を取り戻そうとさえしている。今、“世の中”をみてください。軽々しく「神回!神回!」と。それが“世”です。しょうもない話と至高の神を結びつけようと“している”。強めに言っている理由に気付きますか?「神回!」と言うことの何が本質的な問題か。それは、“世”の考え方ですから「神回!」と言う時には「サタンを讃美している」ということなのですよ。決して神への讃美には“ならない”。これが、いかにまずいことか。“悪魔礼拝”に加わっているのと同じです。実感はないかもしれません。しかし、本質的にはサタンの禍々しい像を拝んでいるのと変わらない、恐ろしいことなのです。

 

回心が、故人の愛を証明する

使徒パウロによれば「神の啓示については誰も言い逃れはできない」ということです。大事なのは、聖書は「神の御言葉」を託された者が“代筆”したものですから、使徒であるパウロが言っていることは「神が仰りたいことである」という事実です。聖書は神の御言葉であり、本質的には神の語りかけです。その意味で「聖書の存在は神の臨在における一形態である」ということ。神は“救済の方法を他に持っておられるか”を聖書に書くでしょうか。その理由は見当たりません。“救済”とは神の国に入ることです。門への入り口を案内する道順は人によって違えど、門そのものを変えることはない。ここで「門が複数ある」可能性が浮上しますが、それは考えづらい。なぜなら、仮に門が複数あるとしてもその場合は「“同じ王国”を指していなければおかしい」からです。決定打は、主イエスが「狭き門」と仰っていること。したがって、少なくとも「“この世界から神の国至る道”は、聖書しかあり得ない」のです。未信徒のまま死した人については、良心によって律法を行えたかによって判断されます。もしかしたら、死の間際に神とのやり取りがあるかもしれません。ここには“啓示の量”という難しい神学的な問題があります。しかし、未信徒の故人が救われるか確かめる方法が実はあります。それは「その故人から強い影響を受けたあなたが回心する」という“間接的な証明”です。越権行為があってはならないので、これ以上はむやみに語りませんが、確実に“最善手”です。

 

全能なる神にすべてを委ねる

義しい信仰においてさえ苦難があるのだから、悪が野放しになることはあり得ない。たしかに、善人としか思えない人を不幸が襲われ、悪人が栄える“ように見える”ことはあり得ます。しかし、不幸に遭ったのは“善人”なのですから、そうである以上は、神の御目に適うほど素晴らしい人ではあれば、報われないことはないでしょう。確かなことは、悪は“必ず”裁かれるということ。なぜか。悪を悪と認識できないその有り様はゲヘナを先取ったものだからです。神は愛であられますが、裁きをなさることは事実です。裁きだけを強調するのでなく、神は“あまい”お方ではないことを知るのが大事です。「不幸は神の裁きの結果ではありません」。“その不幸をもたらした者を懲らしめる”のが神の裁きです。善人の愛が報われるように、私は祈っています。

 

救いの条件は典礼にあらず

選民意識を持つイスラエルは、イエスをキリストと認めることがでなかった。彼らは選びの民として受ける“割礼”を誇りとしていました。それ自体は問題ではなかった。まずかったのは、「割礼によって救われる」と勘違いしたところです。人が陽の皮を切り取ることで救われるとしたら、そこに神がどのように関わるのでしょう。この勘違いは、人がわざ(行い)によって-すなわち、人間の側からの努力によって-救われようとすることであり、「自分の力を神とする」ことです。それは、偶像礼拝と本質的に変わらない。救いは「神の恵み(御力による恩恵)に対して信仰によって応答することによる」のです。本来的に典礼は“救われた記念”として受けるものであり「救いそのものは典礼によらない」ということ。これは、当然ながら洗礼についても言えます。洗礼がかえって敷居を高くするなら、焦る必要は全くありません。“神の福音を信じること”だけが肝要なのです。ただ、「信徒としての自覚が生じるのが明らかに早くなる」ので、受けるのはおすすめです。

 

聖霊の注ぎが、聖書を体験的に証する

信徒が“神から”受けるのは、割礼でもなければ、水の洗礼でもありません。典礼は人の手によるものです。信徒が神から受けるのは「聖霊」です。神ご自身が“御霊”として信徒のうちに注がれるのが「聖霊のバプテスマ」です。感覚的には“良心が研ぎ澄まされるような”状態になり、物事を的確に判断することができるようになります。それが“御霊の律法”としての聖霊のおはたらきです。明らかに自分の状態が刷新されることを感じる。この信徒共通の体験こそ、「聖書が真理である」ことを証明するのです。聖書によれば、自分に聖霊が宿っておられるかは「イエス・キリストは主である」と告白できるかで判ります。なぜなら、イエスを救い主として信じることが、神が望んでおられるご自身の御業だからです。神に「よし」とされ(“義認”と言います)、その証として受けるのが「聖霊のバプテスマ」なのです。

 

信仰は束縛ではなく、罪責からの解放である

信徒になってからの生活は窮屈ではありません。よくないことをしてしまったら感覚的にわかるので、「悪いことをしてしまったかな」と怯える必要がない。仮に過ちを犯してしまったとしても、それを告白すれば赦していただけます。「罪を罪と認めることができる(人間としての不完全さを神に委ねられる)」からこそ、神に「よし」とされたのですから。罪からの解放とは、“罪の意識”からの解放です。信徒になって“得られる”ものは「手放す力」。自然とさまざまな執着が消えてゆきます。その感覚は、憑きものが落ちるよう-病が癒されるよう-です。禁欲的になろうと受動的に身構える必要はなく、愛に生きようと能動的に自由を謳歌するのが、神の恵みなのです。

 

信仰は行いに先立ち、行いは信仰をあらわす

「神に赦されたから律法は関係ない」という“無律法主義”は、神の恵みを誤用した愚行です(恐ろしいことに「牧師」と呼ばれながらも“世間体”を優先して、この点を曖昧にする者もいます)。一方で「律法を行うことによって救われる」という“律法主義”は、神の恵みをはねつけるエゴ(“自分の力を神に見立て”、救われようとすること)です。大切なのは「神に赦された者には,聖霊が与えられ,御霊の律法を行って救われていく」ということ。「行いによって信仰の賜物(救い)をあらわす」という理解が大切です。

 

愛に生きることが、聖書の御教えに生きること

聖書を貫く原理は「愛」です。“キリスト教”には負の歴史があります。彼らは「聖書を燃やさない」ように敬虔を装っていたかもしれない。しかし、「聖書の“御教え”を燃やしていた」。このことは聖書を燃やすことと同じくらい罪深いことです。すべての行動原理に“愛の基準”(貪りへの警戒)を据えると、あらゆることを見通せます。我々は「聖書の“愛の御教えに燃えなくては”いけません」。

 

聖書の善は完璧である

聖書に基づいて“神の御目からみても善いこと”を為す三つの手がかりをお伝えします。1)確信に基づいて行動すること,2)主に対するように隣人に施すこと,3)神の栄光をあらわすように生きること.この基準-要約すれば“神に愛を帰すこと”です-を持つだけで「自分のしていることの善し悪し」が判断できるようになります。

 

神の勝利ゆえに、信徒は悪魔に敗北しない

ヨハネの著した手紙には“反キリスト”という言葉が出てきます。「キリストに敵対する勢力」のことです。信徒の敵は決して未信徒ではありません。「未信徒でなかった信徒は誰一人としていない」のです。この“反キリスト”-すなわち悪魔の勢力-こそが対峙すべき敵です。世には、悪魔に従属する“愛なき獣”が紛れ込んでいます。決して負けてはいけません。愛を失わない限り-私たちが人である限り-人間は神に愛されているのですから、敗北はあり得ません。

 

人であることを捨てた獣に負けてはいけない

「キリストの十字架を台無しにする」ようなことが絶対にあってはなりません。自分が聖書的な確信に生きているかを常に吟味すべきです。もし、そのうえで攻撃を受けるならば、それは大義のゆえに虐げられているということ。むしろ、奮い立って戦わなくてはいけません。私自身、こわいといったら嘘になります。しかし、「中傷してくるのはそもそも人ではありません」。この命題を否定するならば、その論者は意図的に中傷しているということになります。中傷は無分別の結果なので、意図的な中傷は理性ある人間には不可能です。

 

愛の火は燃え広がるべきである

信徒どうしが協力しなければ、リバイバルは起こりません。なぜなら、「愛の輪を広げることがリバイバルだから」です。信仰に生きるという意味で、現代は非常に困難な時代です。しかし、逆を言えば「リバイバルにこれだけ相応しい時はない」でしょう。聖書の愛に燃えましょう。「触れたときに,聖はうつらないが,汚れはうつる」というのは確かにそう。しかし、愛こそは“その事実に気づかせる灯”のです。

 

自己愛の否定が罪をはらう

聖書の教えは“愛”に終始します。その本質は「自己否定」です。「自己愛(貪りという支配欲)の否定が,聖書の説く愛である」ということです。よく主イエスの仰った「自分のしてほしいことは,隣人にもそのようにせよ」という教えを“押し付けがましい”と言う人がいます。これは、“聖書を部分的に解釈する典型的な間違い”です。イエスは旧約律法に精通しておられました。旧約の律法は「隣人に迷惑をかけるな」ということがそのベースにある。そのことを土台にイエスが説かれていることを前提にしなくてはならないのです。イエスが仰りたかったことの本質は「隣人から好かれる(愛される)にはどうしたらいいかを考えて行動しなさい」ということです。「すべての隣人と仲良くする」ことを考えたら、自分の意思を重んじているわけですから“自分を否定しているわけではない”。そうではなくて「愛の向かう先を相手に向けている」ことで“自己愛を否定している”のが肝心なのです。この性質に向かって生きることは神に似てゆくことです。先の“黄金律”を実際に語ったイエス・キリストは、神の身分であられ、ご自身には一切の罪がなかったにも関わらず、人類の罪を贖うために十字架にかけられた。この史実は「自己愛を否定することの極致を、神ご自身が示された」ということです。おそらく「私たちの罪のために」というところに「知らないよ」という感想を覚える人もいるでしょう。それは「十字架を信じると罪が贖われるってどういうこと?」という疑問に近い。「知らないよ」という冷たい呟きで遠ざけられてなお、そのように語る人間の意思を尊重しておられる神が、「それでも、私は独り子を捧げる」と決められた。もし、“「嫌われている者から愛してもらえるなら、自分の命さえも惜しまない」という神の愛”を受け入れた人が「愛に生きる」決断ができたらどうでしょう。「その人の“自己愛”(罪)は消えた」ということにならないか,ということです。「重い」ですか?しかし、それほどに、「重い」ほどに、神が人間を愛していることをご存知だったでしょうか?もし知らなかったなら、あなたは聖書を読むように神から招かれているということです。

 

本能でなく意思に生きるのが人間である

人が救いを失うのは“死ぬ時”ではありません。人が人間としての救いを失うのは(論理的にも)、「人間ではなくなった時」です。言い換えれば「人が本当の意味で死ぬのは人間ではなくなったときである」ということ。世界には、二種類の人間がいます。「愛に生きようとする者」と「愛ゆえに死にかけている人」です。そして、この世には“獣”が紛れ込んでいます。その悪魔は“愛を否定することによって”人間の愛を奪い去ります。気をつけねばなりません。「獣に噛まれて処置を怠れば、自分も獣になります」。福音を受け取るかどうかは、自分が決めればいいことです。福音を受け取らない選択をすることは、人間であるところの意思を行使しています。しかし、「福音を受け取らない選択をしたこと」だけは忘れないでください。“意思を行使すること”ができれば「然るべきところ」に(理論的にも)、必ず落ち着きます。あなたの意思あるところに、あなたは生きているのです。

 

~アバ、天の父上へ~

ご存知の通り、我が国は異教の住処です

しかし、

私の同胞は、最も聖書から遠く、最も聖書に近い。

聖書を知りながら、愛を行わない国の民と

聖書を知らずとも、愛を行う日本人

どちらが神の国に相応しいでしょうか。

ああ、

しかし私は知っています

人間の良心には限界がある。

聖書という御言葉の助けなしに、

人間は律法を完璧には踏襲できません。

この国にはリバイバルが必要です

この国にこそリバイバルが必要です

そのゆえに、私が召されたのも知っています。

聞いてください、我が神よ

日本人は先祖を大切にします。

「聖書を信じなければ救われないなら、

未信徒のまま死した故人と運命を共にする」

この国民は、そのような高潔な愛に生きています。

今、

あなたが聖書のはじめに表明されたご自身のご性質と

あなたが聖書全体でお伝えになったメッセージが

同胞の力になりますように。

“「わたしは父祖の咎を四代にまで問う」

そのように仰ったあなたに祝されることの意味を人々が悟り、

「わたしの統治に欠けはない」

とあなたが示されたその正典を

日本に生きる人が手に取りますように”

その選択肢を人々が知ることのできますように

私を、一滴の灯油のように、聖書の愛という炎にいけてください

この国に生きる一人の信徒より

聖霊さまの御声がありますように

神と共にある感謝をはたらきで示します

主イエス・キリストのお名前によってお祈りします

アーメン。

2022.9/24~

-Age29-