Age19-20

しあわせ

「意味のないようで、最も有意義だった時間」

退院後、自宅での療養が始まりました。のちに弟から聞いたことには、自宅へ戻るのに際し、ハサミなどの刃がついたものからズボンの紐に至るまで、誤用すると危険なものを私の部屋から除いていたようです。

看護師の徹底した管理のもと、病院で服薬していた薬は、日に3回の服薬で計三十錠近く、今度はそれを自分で管理しなくてはなりません。大きな専用ケースに、母の助けを借りながら薬を詰めて、飲み忘れのないように服用します。

入院中は、病人だという自然な認識があったため、特に感じませんでしたが、退院後はどうしても日常生活を意識しますから、副作用の影響を強く感じます。頭の働きは鈍く、何をするにも集中が続きません。常に眠く、何かをする気力も出ません。前にも増して心配症がひどく、潔癖が行動を阻みます。

入院しているときは、“急性期を治める”という趣旨でしたから、治療の目覚ましい前進を日々感じたものです。しかし今度は、“罹患する前の日常生活に戻す”ことが目標です。14歳から18歳までに蓄積した精神的疲弊の回復、もっと言えば、幼少期からおかしいところのあった“精神の性質”を根底から治すということですから、退院後の初診では、優しい主治医も真剣な面持ちで、「非常に長期的な治療を要すると思われます」と言いました。状態が状態でしたから、私も「こうなったら、焦らず少しずつ治していくしかない」と長期療養を覚悟しました。

高校は、夏休みもとうに終わっていましたが、受験期で学校がほとんどなかったことや、いざという時のために一学期の試験で単位を十分取得していたこともあって、頑張って不足日数を保健室登校で補い、そこで課題をこなす条件がクリアできれば卒業できることになりました。これは何より、先生たちが教育指導要領を熟読して必要単位と出席日数を割り出すなど、必死で動いてくださったおかげです。多忙な中、担任はじめ、様子を見に来てくれた先生もたくさんいました。学校行事での事故で負った心身のダメージが精神疾患に相当程度影響したという事実があるとはいえ、お荷物のような生徒に、あんなにも親身になってくれる高校は、私にとり他にありません。

自宅でほんの僅か日常生活に慣れてきた頃から、保健室登校を始めました。アメフト部で有り余るスタミナを見せていた私も、通うだけでヘトヘトという感じで、頭も働きませんから、得意の英語ですらままなりませんでした。ただ、同じクラスでいつも親身にしてくれた友人が受験期に関わらず来てくれて、「他の奴らも来たがってるけど、押しかけると悪いから代表でオレだけ!」とエネルギーを分けてくれました。

かなり無理をした保健室登校でしたが、荒療治になった側面もあり、大量の服薬状態にしては、相当に力が戻りました。正確には、「強い意思さえあれば気力は振り絞ることができ、体力は自ずとついてくる」ことを体感したのです。ただ、「無理をすると台無しだから、慎重にコントロールしないといけないな」と思えるようになっていたことが、それまでと大きく違うところです。いい意味で、身の丈にあった振る舞いができるようになっていました。

あっという間に、卒業のシーズンがやってきましたが、式には出られませんでした。しかし後日、父と共に学校に呼ばれ、終始サポートしてくれた三年次の担任と、教頭となった一年次の担任が二人で見守る中、校長から卒業証書を受け取ることができたのです。私は、立て続けに降りかかる困難によって、高校生活をまともに過ごすことはできませんでしたが、この母校を誇っています。だからこそ、叶うならもう一度ここで青春をやり直したい気持ちもありますが、いいのです。激動の高校生生活は、もはや美しくさえ思えるからです。

こうして、高校を卒業した私ですが、療養は続きます。周りの友人は、キャンパスライフを大いに謳歌しているようで、羨ましく思ったものです。それ以上に、「僕は、家で寝てばかりだなぁ」と療養しかできない自分に焦りを感じていました。その度に母は、「休むことが、あなたの仕事なの」と何度も優しく諭してくれました。

二週間おきに病院に行けば、帰りは決まって具合が悪くなります。体力があるほうではないのに長い道のりを付き添って、自身も疲れているでしょうに、ふてくされる私に対して、「少し休もうか。焦ることないんだから、ゆっくり帰ろう」と、どこまでも気長に、優しく接してくれました。愛に溢れた献身的な母の支えがなければ、私がこんなに早く回復することはあり得ませんでした。

こうして、非常にゆったりとした療養生活が流れてゆきました。それまでが慌ただしすぎましたから、この日々は何気ない日常のように思われました。しかし、この日々は決して、“当たり前の時間”ではなかったのです。

 

*注15

ー私が閉鎖病棟に入ることは、既定路線だった。心身ともに疲弊しきった私が、もし「あからさまな壊れ方をしなかったら」、どうなっていただろうか。今の私はいない-おそらく、生きてもいない-だろう。拘束される人は、基本的に「“何がなんだか”分からず」処置を受ける。しかし、私の場合は「“理由が”分からず」処置を受けた。意味がわかると、この話の重要性がみえる。つまり私は「記憶が失われるのが常であるはず」の疾患で、“理性のみ”を失っていたのである。これは、私の精神疾患が通常のものとは性質を異にしていたことを示すだろう。そして、私が「理性を喪失しながら、意思を喪失していなかったこと」は、“徘徊したときの記憶が残っている”という重要な意味を持つ。もし「どのようにして自分が徘徊したか」を覚えていなければ、このあとに描くように「どうして自分が徘徊に至ったか」をおそらく悟れなかったであろうからー

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