「王の権威を夢見て」
勉強部屋に戻ると、「ここに、今後のヒントがある」と『七星の拳』を読み進めます。そこで、驚くべきものを目にします。物語の後半に成長して再登場したキャラクターの姿が、かの少女にそっくりだったのです。今でも、当人をモデルに模写したのではないかと思ってしまうほどですから、あの時の私が見たら、「やっぱりそうだ」と、周りにあるものが自分に関わっているという思い込みが確信に変わるのも無理ありません。
明け方近くまで、漫画やゲームに描かれる物語の“解読”に耽り、ヘラクレスの難行を調べていました。とある王に条件を持ちかけて仕える伝説などを、講師に聞き従っていた自らの塾生活と強引に重ねます。
ふと、汚れた足裏を見て、裸足で走ったことを思い出した私は、濡れるのもお構いなしに“解読”途中の漫画雑誌をそのまま持ち込んでお湯を張りながら入浴をしました。すると、浴室の外壁から、誰かが叩いているような音がします。祖父宅の浴槽は金属製でしたから、お湯が沸くと温度の関係でボコンという音が浴室に響くことはザラなのですが、雑誌で始まったばかりの鏡の国を題材にした作品を読みつつ浅い湯に浸っていた私は、「鏡の世界から、あの子が扉を叩いているのか!」と妄想します。「身だしなみを整えなければ」と思い立つと、浴室を出て、着替えます。
しばらく待っても少女が姿を現す気配がないことを察知すると、「会いに来てという合図だね」と美術館へ行く旅支度をします。
当時、病床に臥していた祖父。妄言を言う私さえも、いつもと変わりなく可愛がってくれていました。まだ眠っていましたが、「おじいちゃん、行ってくるよ。必ず、帰ってくるからね」。そう伝えると、裏庭から再び駅に向かいました。
早朝の駅で、美術館方面に向かう電車を待ちます。しかし、反対の車線に電車がくるチャイムが鳴り、そちらを振り向くと、明け方にまだ沈んでいなかった月を目にしました。そして、「こっちに乗れというお告げだ」と、到着した逆方向の電車に乗ります。休日の始発近くで、下り方向ということもあり、ガラガラの電車に揺られていると、中学時代に容姿の整った友達の女の子が、数駅先に住んでいたことを思い出し、「そっか、この駅に何かがあるかもしれない」と、電車を降り、改札を出て、市街地に繰り出しました。
私は、またも、靴を履いていませんでした。「素足で歩くことで、英雄だった太古の力を発揮できる」と思っていたからです。ポケットから、“ニケの肖像”レプリカを取り出すと、それを天に掲げました。そうすることで、“神託”を受けようとしたのです。
早朝で人通りがほとんどなく、車も走っていません。車道であろうともお構いなしに、歩みを進めます。信号に差し掛かると、止まるでなく向き変えて、なおも進みます。このように、直進が阻まれると、「違う道を進めという啓示だ」と考えて身を翻し、市内を歩き回ったのです。
やがて、住宅街に入りました。民家の塀をよじ登り、アメフト部仕込みの腕力と脚力で壁などをつたって移動します。“ヘラクレスの怪力”という暗示が効いていたのか、いっそうの力が溢れます。それを見た外国人らしき近隣住民が、「どうしました?」と心配そうに、少し訛った発音で声をかけます。「迷子なんです」と私。そこで待つようにと言われましたが、その場をあとにしました。正常な思考状態ではありませんし、いつ転落するかもわかりませんでした。足のかすり傷で済みましたが、まさに綱渡りの徘徊です。
やがて、ある民家に止めてあった自転車に、なぜか目を留めた私。鍵がかかっていて、押すことはできません。なぜか、それを担いで運びました。何メートルか分からないくらい、ひたすらに“半神半人の怪力”で移動させます。そうして、年季の入った家の前で行き止まりになりました。「ここか…」と私は何かを思ったようでした。
家の扉には、町の組合員を示すステッカーが貼ってありました。それを見た私は、「この地の長に会うことに意味があろう」と、チャイムを鳴らします。奥から、いかにも優しそうな老人が出てきました。「君、どうしたんだね、裸足で歩いてきのかい?親指が切れてしまっているよ。かあさん、マキロンと絆創膏を持ってきてくれ」。私は、この親切な老人が、ここまで導いていた“賢者”だと思い込みました。「この家に、なぜ訪ねてきたのかな?」と聞かれると、「迷子なんです」と答える私。「この電話で、親御さんに連絡しなさい」と差し出された携帯で、家に電話をかけます。「今、いったいどこにいるの?心配だったのよ!」と滅多なことでは声を荒げることのない淑やかな母が、本気で心配していました。家族に大きな心労をかけていることをよそに「ごめんなさい、今から帰るからね」と、短い返答をして返事も待たず通話を終える私。その穏やかな老人からサンダルをあてがわれ、駅の方向を聞いた私は、言われた通りに向かいました。
駅に戻ると、そこから電車に乗って家族のもとへ戻る流れであったにも関わらず、今度は、反対の出口へ向かってしまいました。
広場を彷徨っていると、やがて商業ビルに辿り着きました。定休日だったらしく、開いていません。建物全体を回っていると、鍵がかかっていない入り口を見つけ、中に入りました。「ここに、あの子を幽閉している魔王がいる」と妄想した私は、入ってすぐ、近くに立ててあった傘を手に取ると、ビニールを剥ぎ取り、武器に見立てて階段を上がって行きました。どのフロアもシャッターが降りていますから、十階近い、素朴な階段をひたすら上へ向かっていきました。親玉が待ち構える玉座へ黙々と進んでいるような気持ちでした。
七階に差し掛かったあたりに関係者以外立ち入り禁止のチェーンがありましたが、それを理解できる理性はありませんでしたから、押しのけて上り続けました。そして、とうとう最上階に来ると、そこから先へは鍵がなくては進めないらしく、“怪力”で開けようとしますが、出来ません。「魔力が働いているな…」。そう思って辺りを見回すと、放送用のスピーカーがあり、「俺は、ここだ。今すぐここを開けろ」と叫びます。当然ながら返答はなく、その装置を武器に仕立てた傘で七回打ち叩くと、「よし、次だ」と何かを達成したかのように、階段を駆け下ります。
ビルから出て近くを徘徊していると、かの少女に似た後ろ姿を見かけ、自転車に乗ったその人の後をついていきました。やがて、その自転車を見失うと、業務用エレベーターを目にしました。「これが、最終地点か…?」と思った私は、着ていたシャツを脱ぎ、乗り込んで下降しました。
先へ進むと、その施設の警備室があり、「君は誰だね?そんな格好でどこから入ってきたの?」と問い詰められます。私は、それまでの勇者然から一転、幼児退行したかのように、「ぼく、迷子なんです。助けてください」と言いました。
間もないうちに、警察がやってきました。落ち着き払った中年をやや過ぎた男性と、眼鏡をかけた温厚そうな若者の二人でした。「大変だったなぁ。もう大丈夫だぞ」という慰めに、「“こっちの世界”のお父さんとお兄ちゃん?」と、幼児のように尋ねる私に、状態を察したのでしょう。懐深く対応してくれました。
パトカーに揺られて警察署に向かう中、「どこから来たんだい?」と聞かれた私は、なぜか、「ぼくは、向こうの世界では、“イエス”と呼ばれていました」と応えました。錯乱の元である“ヘラクレス”と返すなら、まだ少しは分かりますが、未だにこの時の返答には理由が見つかりません。
署に着いて、大きな仕事場の奥にある部屋で、身元などを細かく聞かれます。扉は開いたままで、忙しなく働く職員が見えます。
住宅を徘徊して、家をよじ登って、商業施設を荒らして…。病に憑かれていることを察してくれていたとはいえ、不法侵入を繰り返した私を寛大に扱ってくれました。近くにいた婦警さんは、「この子、何も悪いことしてないのにねぇ。可哀想に」と慰めてくれました。それほどに私は、混乱を呈していたのでしょう。
その場でしばらく幼稚園児のように振る舞っていると、連絡を受けた父が、いかにも困った表情で駆けつけました。事前に随分と電話で職員とやり取りをしたようで、間を置くこともなく、父と私はタクシーに乗り込み、中学時代にかかったR国際病院に直行しました。
家での躁状態や、美術館での奇怪な振る舞いなどを照らし合わせ、洗脳をきっかけに私が精神的に完全におかしくなったことをいよいよ理解した父。「これからぼくは、皇室の一員になるんでしょ?」と意味不明なことを話しては遠足のようにはしゃぐ私を、道中で刺激せぬよう宥めていました。
タクシーの中で、イメージが浮かびました。「中学の時に来た、病院併設のSRタワーで、結婚式が開かれるんだ…。そして、二人は異世界に行って、真っ白い部屋のモニターから世界の様子を眺めるんだ…」
やがて、タクシーは病院に到着しました。
SRタワーには行かず、自分が受診するらしいことを察すると、「あの子、精神科医になったのかぁ」と考える重症の私。
病院内でことにつけ映る、十字架に巻きつく蛇のマークは、懐かしさを呼び起こし、過去のさまざまな出来事に思いを馳せる私を、いっそう高揚させました。
やがて呼ばれると、それまで二度に渡り助けてくれた“かの恩人”が深刻な面持ちで座るよう促します。
「会えるはずのあの子を探してたんです」とそれまでのことを細かく話します。名医とはいえ捌くのは容易でない情報量のようで、どこから処置したらよいか思案しているようでした。
「一日でどうこうなる状態ではない」と判断したらしく、薬を処方され家に帰りました。
放浪ののち帰宅すると、「とにかく無事でよかった…」という様子の両親は、薬を飲むように促します。私は、自分が正常だと思っていましたから、「それ、偽薬でしょ?知ってるけど、飲むよ!」と安定剤を服用すると、そのままベッドに横たわります。父が、真っ黒の足裏をウェットティッシュで拭ってくれている間に薬が効いてきて、前夜から動きっぱなしの私は眠りに落ちました。
起きると、夕刻を過ぎ、夜になっていました。私は起きるとすぐ、ベットの近くにあった『危機の核心』の攻略本を読みます。“何か”を達成するはずの自分が、家に戻ってきたことで、「ぼくは、ヘラクレスに戻ろうと、英雄を目指そうとしているソルジャーなんだ」と、中学時代を支えた英雄譚の主人公に自分を重ねました。ページをめくりゲーム内のマップを見ると、自分が徘徊したルートと無理に合わせようとします。
「そうか、このゲームに辿り着いたのも、あの友人が開発者の息子だからなのか」と、このゲームを紹介してくれた中学時代の友人に連絡を取ろうとする私。連絡先は、祖父宅の勉強部屋にしかありません。そこで私は、階下に降り、外に出ようとしました。当然、今度外に出てしまったら、どうなるか分かりません。命も危ういです。両親は、私を必死に止めます。とうに理性を失っていた私は、怒鳴り散らして暴れました。かろうじて残った自我が、一線を超えないように何とか抑えています。
洗脳から解かれてからというもの、思うがままに振る舞っていた私は、「警察を呼んでくれ!」と絶叫しました。自分がどうかしていること、手のつけようがないこと、これ以上もたないことを、“本能”が察したのでしょうか。これだけ壊滅的な精神状態で、自ら警察に頼る判断をしたことは、“理解を超えた働き”によるとしか、説明できません。
「警察を呼んだら、ここには戻れなくなるんだよ?辛いことが待ってるんだよ?」。長男を思い続け涙する母に、またも心労をかけた私は、とんでもない愚息です。
必死な両親との間を取り持つ弟に、私はどう映ったのでしょう。誇れない兄です。
私が為した一連の行いは、勘当されても全くおかしくないほどの暴挙でした。父は、「大切な我が子を見限るようなことを、できるわけがないだろう」と今も言ってくれます。
4000時間もの祈りと苦闘してまで守りたいと願った、こんなにも温かい最高の家族に対しての愚行だったからこそ、この夜の事件は、大罪の記憶として私の内に深々と刻まれています。
こうして、家の前にパトカーが到着すると、署に向かいました。道中、「ぼくは、警察官になるんだな」と、かの英雄譚で主人公が“ソルジャー”になるように、自分が正義の守り手になる気でいました。
署に着くと、「あのビルだ…!」と、ゲームに登場した建物に来たかのように飛び跳ねる私。父が一連の出来事を細かく伝えている間、もう一人の警官に相手をしてもらっていました。
このときの私は、時間感覚がなくなっていて、極めてゆっくり事が進む状態を「時間軸のズレ」と言っては周囲を戸惑わせていましたので、正確には分からないのですが、深夜二時をまわる頃でしょうか。話し合いの末、都が管轄する“医療処置入院”を適用する指針が定まると、対象者である私を乗せたパトカーは、都立M病院に向かいました。
急患を受け付ける裏口で待機していると、眠気に襲われた私は、「休んで大丈夫だよ」と言われ、眠ってしまいました。その間、警官と父が、病院の職員から入院の要項を説明されていたようです。
やがて入室を促され、半分寝ぼけたまま、真っ白な空間の中央にある椅子に座りました。白衣を着た三人ほど医師に何かを聞かれますが、状況が飲み込めません。不穏な状況を察した私は、「汝ら、我を売らん!」と叫ぶと、周囲を取り囲まれ、押さえつけられました。点滴の針を入れる処置に、暴れようとした私ですが、警官が、「大丈夫だ!」と語るのを聞くと、信頼して身を任せました。
やがて、点滴から薬が落ちると、そのまま意識を失いました。
*注13
ー実のところ、私は中高で身体的にも精神的にも「二度,死した」のかもしれない。それでも「今,生きている」事実は、まるで「人は心身で生きるにあらず」ということを示してるよう。それというのも、医療保護入院のとき、私は明らかに“心身”では動いていなかった。自生思考と大怪我を経験したからわかる。あの時は絶命しかけていたけれど、かの二つの体験とは違い私の意識は“分裂”していた。私はおそらく、「この世に生きる」か「神の国に生きるか」-すなわち、霊的な存亡-その最終判断を迫られていたのだ。それでも、ここから描くように、私の意思を問わないかのような神からの“特別な恵み”だけが、そこにはあったー