Age07-12

偶像

「信仰の萌芽、ここにあり」

このようにして、私の小学校生活は(ときに幼さゆえの僅かな困難はあったが)、明るい時間の内に終わった。私が楽園をイメージする時には、“夢の学校”の達成を掲げ、文字通り創り上げていた、あの小学校が浮かぶ。

中学での話に舞台が移る前に、この時分にあった、ある出来事をお伝えしておこう。

小学校での休日の過ごし方はというと、とにかく休みの日には、父に連れられて、美術館や演奏会といった芸術に親しんでいた。

たしか、四年生くらいのとき、父親と一緒に、生家からそう遠くないところにある、帝釈天を祀っている寺に行った。その時のことを鮮明に覚えているわけではないのだが、お土産に御守りを買ってもらった。それは、てっぺんに金色の傘があるガラス状の瓢箪で、下から覗くと帝釈天が描かれているもの。

私は、この御守りに、自分の知り得ない大きな力によって守られるという感覚と、それに伴う“畏れ”を覚えた。学校生活は、順風満帆とはいえ、やはり時には、幼さゆえの心配があり、神様に縋りたい時があった。祈ることに抵抗があった私は、このガラスの奥を眺めては、「どうにかなる」と思ったものだった。同時に、「何か悪いことをしたら、裁きが来る」という気持ちが、いっそう私を真面目にした。この時に支えとなった、“自分の及ばない存在”が、のちの大きな試練との遭遇につながるのだ。

本当は、このまま楽しい話を続けたいところだが、ここから少しずつ話は暗くなってゆく。

 

*注21

ーこの国における「信仰の自由」は聖書的にも重要である。「自らの意思で福音を選ぶ」というのは“聖書的”である。ただ、“偶像”がこれだけ蔓延していると「“福音”を選択肢として提示する」ことは困難をきわめる。「信じる自由」は幸福のためにあるのであって、絶望のためにあるのではない。ここまで描いたように、私自身が“唯一の神”を知るまでに幾度も躓いた。「あの祈り」,神からの“特別な啓示”なくして私は救われなかった。だから私は、己が身に起こった奇跡を伝えたいと願うのである。さて、「あの祈り」への準備は整いつつあったー

-Age07-12
-,