Age14

苦の祈り

「僕を病気にしてください」

四月が下旬に差し掛かる頃だったと思います。日曜日の夕刻、自室の半開きになったカーテンから夕焼けを見ていた時でした。何の前触れもなく突然、「僕を醜くしてください」と、何かに“祈り”ました。私は、自分が凛々しいとは思っていませんが、醜くなりたいとは望まないので、即座に「いえ、僕を醜くしないでください」と祈り返しました。

どうして祈り始めたか、ということを考えるより先に、“祈ったら成就する”という思考がまず、はたらきました。それは、小学校時代に抱いた、あの“畏れ”ゆえでした。心の支えともなった自分を超えた何かへの畏れが、この時を境に、私を苦しめるようになったのです。

私が否定の祈りをすると、ほとんど間も無く、「僕を醜くしてください」という祈りが再度浮かびました。私は、何がなんだか分からなかったですが、「いえ、僕を醜くしないでください」と再び祈り返しました。

ここからは、この繰り返しです。“再び”という言葉が意味をなさないほど、自分にとって嫌なことを意思に反し勝手に何かに祈っては、それを能動的に否定する、ということをひたすら繰り返すことになったのです。無意識の祈りと、能動的な否定の祈りの間はほとんどなく、三秒ほどでした。それをずっと繰り返しました。

具体的に活動をしていると、その間は、いくらかマシにはなりますが、他の行動にも、この奇怪な祈りはついてきました。その日曜日は、訳もわからず怯え、かといって、何かに祈り始めたことを家族に告げる気にはなれず、憔悴しきったまま床につきました。あまりの思考的な疲労から、睡眠だけはしっかりとれることが救いでした。

翌日、目覚めると、即座にまた祈り始めました。「夢であってほしかった」私は、心底、そう思いました。さらには、この月曜日からは、学校と塾にまで、この祈りを持っていかなくてはならないのです。こうして、私の日常は苦しみに満ちました。

クラスメイトと会話を交わすときも、返答するのがやっとでした。皮肉なことに、このときになって私は、「特別親しい友人がいないこのクラスでは、この奇怪さを隠し通せるかもしれない」と、それまでの寂しさがある種の癒しのように思えたのでした。

授業を受けているときは、いくらか楽です。祈りながらではありますが、耳に言葉が入ってくると、少し麻痺しましたから。それでも微々たる効果で、やはり、当時の私にしたらただでさえ多忙な日々でしたから、それを祈りながらに乗り越えるのは“生き地獄”でした。塾の課題をこなすにも、それまでより遥かに時間がかかります。取り組みの質が下がれば小テストの点数は下がり、例の講師に罵倒されます。私にこれ以上、どうしろというのでしょう。

私は、自力でどうにかしようとしました。その方法は、「祈りが成就しても受け入れよう」と開き直ることでした。しかし、「もう醜くなろうが構わない」と思い直すと、私の祈りは、「僕を病気にしてください」と“変容”しました。

それからは、この繰り返しです。自分にとって嫌なことをピンポイントで祈っては、それを否定し、辛くなって開き直れば、さらに嫌なことを祈る。こんな日々を繰り返しているうちに、私はもはや冷静な判断力も失い、祈りに取り憑かれていました。

途中、クラスが別になっても仲良しの友人達と遊んだりすることもありました。しかし、癒しになるべき時間さえ、苦痛でした。映画を観ても、内容は僅かにしか覚えていない。祈りと格闘していたから。アメフトの試合を観ても、スコアボードしかまともに眺められない。祈りと苦闘していたから。楽しいはずの時間が、楽しくない。いい思い出が、苦い思い出になる。そんな日々は、それから七ヶ月ほど続きました。

苦しみから逃げる方法を模索していた私には、自分の青さと、祈りの呪いによって、休むという選択肢はありませんでした。そんなとき、「もはや、自分には何が起こってもいいじゃないか」と、開き直りを適用しました。これが、更なる苦痛を私に与えました。

やがて現れたのは「家族が病気になりますように」という祈り。私は、“自分”にそのような祈りが浮かぶことに絶望しましたし、家族に何かが降りかかることについては、もはや開き直りは適用できません。そこからの日々は、さらに苛烈なものになりました。塾で試験を受けているときでさえ、祈りは私を支配します。頭が、疲労でズキズキと痛みます。心は、悶えて枯れてしまいそうです。

その数日後、いよいよ限界に近づいた私は、どこかで避けていた方法をとることにしました。「僕が祈っているのが神様なら、こんなことは望んでいないと分かってくださるはずだ」という考え方をすることです。しかし、なぜ私がこの方法を避けていたのか、即座にわかりました。瞬く間に、「悪魔よ、僕の家族を病気にしてくれ」と、“悪魔”に祈りはじめたのです。

私は、自分が悪魔に魂を売ったように感じました。しかし、もう残り少ない力を振り絞り、「神様、僕の家族を病気にしないでください」と祈り返しました。この問答を数日繰り返し、11月の終わり頃、模試の帰り道で、ほとんど廃人状態になりました。この時にも、隣には、かの戦友がいました。彼が共にいてくれたことが、どれほどの支えだったことでしょう。

最寄りの駅で彼に別れを告げて電車を降りた私は、友との会話という、竪琴が奏でる音色のような、最後に残された僅かな安らぎから離れ、悪魔と問答しました。

私には、もはや生きる気力が残っていませんでした。「家族の死を悪魔に祈る人間に生きる価値はないし、僕がいなくなれば、家族の皆は助かるはずだ」と考えました。今思えば、この時、自害していても全く不思議ではありません。しかし、もはや、自ら命を絶とうとする気力すらありませんでした。

もう、生きている心地は失せ、死んでいるも同然でした。もはや、意思が働かないところまで来ていました。ベッドでうつ伏せに倒れると、そのまま眠りました。

夕刻、臨界点に至った私は、泣きながら、母にことの次第の一部分を話しました。

「僕は、自分に起こったら嫌なことを祈ってしまうんだ…。だけど、僕にはどうしていいか、わからないんだ」と激しく嗚咽しながら、それまでの4000時間に及ぶ苦闘で抱えていたことを告げたのです。しかし、家族を呪い、それを打ち消すために心身を削っていたことまでは話せませんでした。祈りが止むわけでもありません。しかし、もう、孤独ではないのです。

 

*注2

ー中学時代に私を虐げた塾講師を私は恨んでいない。当時でさえ、そうは思わなかった。疑問にさえ思わなかった。そのわけが「この時の苦痛さえも、神のご計画だったからである」と、あの時分にどうして解ろうか。“イスラエルの国を裁くのに、邪な大国を用いた神の御手”。さて、神はどのように私を導かれたのであろうー

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