Age17

葛藤

「辛うじて生きる私」

一度、自宅へ帰った私ですが、通学路は通勤ラッシュにどうしても重なってしまうことがあり、高校までいくらか近い祖母宅からしばらく通うことになりました。学校のスポーツ保険が降りたので、それをタクシー代に充てて、しばらく通いました。

さすがに、いつまでも甘えられないので、バス通学に切り替えるためのルートを覚え、歩き切る体力をつけました。学校のグラウンド裏に来ると、アメフト部が練習しています。私は、悲しさと悔しさが渦巻きながらも、懐かしい声を聞けて嬉しくもありました。「しゃあぁ、いこーぜー!」というJ高アメフト部お決まりの掛け声で驚かそうかと思いましたが、我慢しておきました。

その時に再会するのも一興ですが、アメフト部との合流は、私立C高校との練習試合の時でした。病院で「秋大会の直前に士気を下げてしまいすみません」と震えながらメールを送信してから、随分と長い時間に思えます。

私が対戦校のグラウンドに現れるとは思っていなかったのでしょう。再会をドキドキしている私に対して、先輩たちが、「おおおぉ!まじかおまえ!」と、とんでもなく喜んでくれました。「よし、今日、俺、2本以上タッチダウン取る」とエースランナーの先輩はじめ、チームが活気づいたことが、すごく嬉しかったです。その試合は、大差で勝利することができました。プレーすることは、まだ考えられない私でしたが、やはり試合は燃えます。

学校生活はというと、勉強からも離れていましたから、なかなかに大変でした。授業が終わると、駅まで松葉杖をつき、B中央総合病院と同系列にあたる病院で、リハビリを受けます。ここの療法士さんは、穏やかなベテランの女性で、熟練の技術を持っていて、“鬼コーチ”のおかげで峠を越えていた私の膝は、どんどん屈曲角度を増やしていきました。

そして、執刀医の定期診察を重ね、少しずつ荷重が増え、数ヶ月の後に、いよいよ松葉杖を外すところまで来ました。診察が終わると、せっかくなので、鬼コーチに見てもらうことにしました。膝の屈曲をしてもらうと、「おお!完全に曲がるじゃない!」と、本来のフランクなテンションが嬉しかったです。

膝周りの筋肉は、だいぶしっかりしてきて、最初はたじろぎましたが、力を入れる感覚を取り戻すと、「あぁ、あぁ、歩ける、歩けるぞ」と歓喜の声を隠せませんでした。ぎこちなさは残るものの、数分のうちに、すっかり歩けるようになりました。

本当に感動的でした。まるで、“赤子が立って歩く感動を、自分自身が体験したかのよう”でした。念のため、松葉杖を手に携えながらですが、“自分の脚だけで”帰路につきました。

そこからの日々も、授業後にベテラン療法士に歩く姿勢を矯正してもらいます。鬼コーチが、松葉杖の段階で口を酸っぱく「ここでクセがつくと治らないよ」と足をしっかり残すことなどを指導してくれていたので、歩き方が自然になるまでに時間はかかりませんでした。

自力で階段も登り降りできるようになった頃、ついに免許皆伝となりました。事故の直後には「二度と歩けないかもしれない」と絶望したほどの重傷が、多くの人の助けで、ここまで癒えました。もはや、この左脚は、私だけのものではありません。

一つ、残念なのは、新しい春が近づいていることです。入院中に気づいていましたが、先輩の望む試合のフィールドに、私は立つことができないのです。

そこから、定期診察で、小走りの許可が降り、上半身のトレーニングにOKが出ました。アメフト部復帰です。選手として戦えなくても、できることはあります。先輩とトレーニングの時間を過ごし、グラウンドではタイムキーパーやドリンク供給をします。「僅かながらも、先輩のいるチームに貢献できている」。苦い中学時代で疲弊した私に、夢の時間を与えてくれた先輩へ、少しでも何かを返したい私でした。

やがて、春大会が開幕しました。一回戦は、N高校。中学の強豪クラブ出身の選手が二人いるらしく、侮れない相手です。

試合では、ディフェンスで前衛にいる副キャプテン二人の強烈なラッシュと、後衛の確実なタックルで攻撃を防ぎます。オフェンスでは、止めにかかる相手選手を引きずりながら前進し振り解くキャプテンの猛烈なランプレーで得点、見事勝利しました。

しかし、次の相手は強豪、L高校。この相手は、関東大会にも出場する強豪。高校アメフトは、競技人口が少ないため、トーナメントの早い段階で全国レベルの相手と対峙することがザラです。

試合前の円陣。ベンチコートを着た私も加わります。キャプテンのハドル。「もしかしたらこれが、このチームで闘う最後の試合になるかもしれない。でも、俺は最後にする気はない。番狂わせ、起こすぞ。楽しくプレー、ベストパフォーマンス、いくぞ!」、「ファイ、オウ!」。

勝率は三割を切る、というのが現実でした。私は、この日の試合を鮮明に映像として残すため、ヤグラからビデオ記録の係をしていました。

試合は思わぬ展開になりました。開始早々、エースランナーの先輩がパワー溢れる走りで突破すると、そのまま相手ディフェンスを快速で振り払いタッチダウン。二桁得点し、リードした状態で前半を折り返したのです。

ただ、後半は、相手が隠し球のプレーを多用してきて、いよいよ追いつかれました。それでも、ディフェンスは食い下がり、私と同じポジションの先輩は相手のパスを奪うインターセプトのビッグプレーを二回決めました。しかし、J高校の弱点であるロングパス攻撃に相手が切り替えると、次第に対応が難しくなり、引き離されていきました。私が「このままではいられない」と思っていると、顧問の先生が、「ビデオ係は私に任せて、グラウンドから応援しなさい」と言ってくれました。私は、腹の底から、大声で応援しました。「もし俺が怪我せず、ここで通用する選手になっていたら…」。その悔しさがよぎればそれだけ、声量も大きくなりました。切り札のフォーメーションを使うも、攻撃に残された時間は僅か。敵陣の半ばまで運ぶも、攻めの手が止まり、相手に攻撃権が移ります。そして、相手は10点以上リードのまま、時間のかかるプレーを選択、タイムコントロールに切り替えました。いよいよ最終プレーに近づくと、フィールドから涙する声が聞こえてきます…。やがて、試合終了のホイッスルが鳴りました。

グラウンドの外で、プレーヤー達を迎えました。皆んな、涙していましたが、私は実感が湧かず、ぼんやりしていました。更衣室で称え合う先輩たち。その後の写真撮影の時には、同期も含めて涙が引っ込んでいたのに、プレーしていなかった私だけは、この時になって「これで先輩との部活は終わり」ということを実感して、泣き出しました。

数日後、引き継ぎを兼ねた送別会。最後の試合映像を楽しそうに振り返る先輩たち。

それから、役職の任命になると、「もし怪我しなかったら、お前がエースで、お前がキャプテンだった。でも、この役職でも、お前はチームをよくできる」と言われ、私は“筋トレキャプテン”になりました。

抱負を述べる段になると、私は、先輩たちをひと笑いさせたあと、「死ぬ気でやります!」と叫びました。「おお!」と先輩たち。

私は、歩けるだけでも幸せだと分かっていましたから、“死ぬ気で”という言葉がいかに不謹慎か、よくわかっていました。しかし、私がこの言葉を叫んだのは、“生きていることのありがたみ”を知ったからこそでした。入院で自己顕示欲の一切が拭い去られ、幸せについて考えさせられた私には、もはや、“闘志”がなくなっており、アメフトプレーヤーであることに、特別な意味を見出せなかった。そして、ぶつかる練習にいよいよ参加できる状態になっていましたが、その前から既に、ぶつかるのが怖くなっていました。怪我のショックから、イップスに近い状態にあったのです。なので、「プレーを諦める退路を断とう」と、敢えて宣誓したのです。「同期は七人。もう、グラウンドで無力さを味わいたくない。今度こそ、プレーでチームに貢献する。それ以外に道はない」。そのためにプレーヤーとして復帰するには、こうでもしなくてはならなかったのです。なんとも青い思考ですが、当時の私なりに精一杯だったのだと思います。

新入生を迎えるころには、私は、“全荷重以上”つまり、全力疾走、跳躍、バーベル担ぎ、ヒットといった、「アメフトの動きは全てしていい」という許可がおりていました。そして、私は、自分の想像より遥かに早く、身体能力が戻ってくる感覚を得ました。「これなら、秋大会には十分、間に合う」。新一年生を多く獲得したことで彼らを主戦力にする必要から、コーチ陣が、“基礎から徹底的に取り組み直す”ことを掲げたのを好機に、私も技術を一から学ぶつもりで練習に取り組み、サポートの経験を活かしてタイムテーブルの管理を行って練習効率の向上を図りました。そうして、夏合宿を迎えました。

アメフト選手としての復帰が本当に果たせるとは思っていなかった私ですが、いざ復帰すると、悲しい事実が突きつけられます。「アメフトが全く楽しくない…」。それもそのはず、コンタクトスポーツは、“相手を打ち倒すつもりで”挑むのが基本です。ただでさえおおらかな性格のうえ、半年以上歩けない経験をし、さらには闘争心を失った私が、そのような性質の競技に取り組める方が不思議なことです。

練習すればするほど、「もはや、自分にとってアメフトは煩いのもとでしかない」と感じるようになり、疲弊していきました。トドメは、練習試合でした。「あんなに昂った試合が、楽しくもなんともない。それどころか、こんな空間には怪我を負うリスクしかない」。そう思うようになり、プレーヤーとしての先が見えなくなりました。

秋大会の一週間前。それは、大怪我から一年の経過を意味していました。私は、ここに来て、中学時代にかかった精神疾患の余波に襲われました。「今はチタンが入っている。ここでもう一度、左脚を折ったら、今度こそ歩けなくなるぞ」。脅迫的な思考に襲われ、脳裏には昨年の惨状がフラッシュバックし、試合会場のグラウンドにうずくまる自分のイメージに囚われてしまいました。

すると、理不尽な怒りが込み上げてきます。「そもそも、俺が怪我をしたのは、学校行事だ。普段さんざん威張り散らしてる教員連中だって、怪我した途端、こっちから当時の状況を聞かない限り閑古鳥だったじゃねえか。その俺が、この高校の名前を背負ってプレーするのは、おかしくないか?」。

そして、試合を楽しみにするチームメイト達が、心の潤いに溢れた昔の自分に重なり、恨めしくさえ思えてきて、「俺がこのチームに貢献する理由は一切ない」と逆上にも似た感情に至りました。

そうして私は、無責任にも試合出場を辞退し、「体育祭など誰が出るものか」とボイコットして学校を一週間近く休んだのち、先送りにしてもらっていた日程を早め、半ば逃げるような形で入院しました。

入院間際のある日、教室を出ると、同じ階で受験勉強に勤しんでいた先代のキャプテンと出会しました。入部当初からずっと期待をかけてくれていた人です。「秋大、出られなかったんだってな。自分を責めるな。しゃーないぞ、しゃーない。そもそも、あれだけの怪我から、選手ができるかどうかっていう話ができるまで戻せる根性ある奴が他にいるか?皆んながお前を認めてること、忘れんなよ」。そう言って、力強く肩を揺さぶりました。私は、嬉しさより悔しさがまさって、声を震わせました。

そのあと、チームメイトの二人が、教室で一人、感傷に耽る私に話しかけてきました。私の頭には「出来るものならプレーしたかった。でも、楽しくプレーできないんだ。あの頃の俺はいないんだ。みんなを見るのが辛いんだ。フィールドに残ったって足手まといになるだけだ。タックルのできないラインバッカーがチームに必要かい?学校を逆恨みしてる奴に、ユニフォームを着る権利があるか?君らは楽しいんだろ?気楽でいいよな、大腿骨を折ったこともない奴は…」と、今までの感情が思考の渦を巻きました。

“誰にも非がない事故”に対しての恨み節。私は、それが重々分かっているから、二人には、ただ一言だけ伝えました。「ごめん、本当に…」。すると、私は泣き崩れ、嗚咽しました。私が最初に揚々とアメフト部に誘った友人と、トレーニングルームで初めて一緒にウェイトに取り組んだ友人。私の咽ぶ姿を見るのに耐えかねた二人は、肩をそっと叩き、外へ出ていきました。

大怪我という薬によって、いい意味で変わったにもかかわらず、その副作用による“心の乾き”に耐えられなくなった私は、自分と周囲への複雑な感情を抱いたまま入院しました。

再び病院に来た私は、健康体のままで病棟に来ることに対して、不思議な感覚になりました。

病院の様子は少し変わっていて、特に、看護師さんが半分くらい違う人になっていました。「随分、変わったでしょう。異動とか、離職とか色々あってね」と、昨年もお世話になった看護師さんの一人が言いました。

諸々の手続きをすると、病室で手術までの流れを説明されました。思っていた以上に早く、手術が行われるようです。隣のベッドには、大腿骨を二回折ったという、“大先輩”にあたる気さくなおじさん。斜め向かいに同じく大腿骨を折った物静かなお兄さんがいました。

今回は、昨年と違い、“飲む点滴”と言われる経口補水液がありましたから、前日にもそれが飲めました。ただ、ボルトの摘出は、入れるときよりも難しい手術です。執刀医が変わらなかったので、「あの先生なら、なんの心配もいらない」と思っていた私ではありましたが、手術の直前になると急に緊張してきました。でも、向かうしかありません。摘出はしなくてもよかったのですが、最終的に「チタンを外す」と意思表示したのは、私でしたから。

手術台に乗るのにも、今回は手を借りません。そこから、酸素マスクをされ、「気づいたら、終わってるからね~」と補佐についたベテラン医師が言い、執刀医の落ち着き払った笑顔をみると、そのままピリリと麻酔がかかりました。

医師の声が聞こえます。「終わったよ~。おつかれさま」。そして、執刀医が静かな笑みを見せ、「無事に終わったからね」と言いました。「よかったぁ」。いよいよこれで、“完治”です。“術後の痛みに耐え、リハビリが終われば”ですが…。

夜は、予想に違わず眠れません。炎症や発熱は、どうしたって避けられませんので、こればかりは仕方ないことです。ただ、昨年の入院初期にように、時間感覚がおかしくなることはなく、ただただ、脚の鈍い痛みと熱っぽさ、そして床ずれとの格闘です。こんな時、天井を見上げる他ないのが何ともしんどいこと。無言を貫きたかった私でしたが、日付をまたいだ辺りから、背中がじんわりするのに耐えかねて、「痛ぇなぁ、床ずれ…」と小さく呟き始めました。そうすると、いくらか楽だったので。

午前5時をまわり、いよいよ起き上がれる頃のもう一踏ん張りが、とりわけしんどかったです。この日は、結局、一睡も出来ませんでした。

今回は、なるだけ迷惑をかけないと決めた私でしたが、さすがに苦しく、「まだ、起き上がれませんかね…」と請いすぎた私は「はいはい、準備するね」と、やや呆れられてしまいました。カテーテルを外し、「起き上がっていいよ」と言われましたが、想像以上に脚が痛く、床ずれからは解放されたものの、術後の痛みを侮った自分を反省しました。

午前一杯はキツかったですが、昼過ぎには元気を取り戻しました。

その頃になって、“鬼コーチ”がやってきました。私は、「いよいよ、試される時が来たな」と思いました。退院してからというもの、「あの時、もっと脱力できていたら、泣きべそをかかなかったかもしれない」と振り返ったり、「タオルを使って屈曲自体の自主トレもすればよかった」とフィードバックした私は、「今度はうまくやる」と意気込んでいたのです。

すると、どうでしょう、明らかに昨年と違います。今回は筋肉の損傷がほとんどないですから、純粋な比較にはなりませんが、「自分のよいイメージがこんなに実現するとは」と思うほど、力加減を含めたリハビリの内容そのものは変わらない中で、理想的な取り組みができました。“コーチ”が最初に会った時のように、フランクに接してくれたことが嬉しかったですし、他の療法士が「去年はあんなに喚いていたのに」とちょっと意地悪く言うのでさえ、賛辞のように受け取れました。

入院の期間は、十日ほどでした。昨年は気力が続かず、ボクシング漫画を読み漁って自分を奮い立たせようとしては、見かねた外科部長に「勉強したまえ」と叱られていた私でしたが、今年は、リハビリがうまくいったことで、気持ちに余裕があり、参考書に向かうことができました。

それ以外の時間は、隣のおじさんと話をします。穏やかで面白く、すっかり仲良くなりました。話が骨折の経緯を語り合う流れになり、凄惨な事故を飄々と語る彼をみて、ふと、昨年向かいのベッドにいた壮年の男性のことを思い出しました。

何も語らず、微笑みを私に向ける、そのおじさん。寝たきりだった当時の私は、「この人は自由に動けていいなぁ…。どこが悪かったんだろう」と思っていました。その人が数日後に退院すると、看護師さんから聞いたことには、「向かいに居たおじさんね、水道工事中に数メートルの深さがある穴に背中から落ちて、生死の境をさまよって、ボルトを大量にはめる手術をして、半年くらい入院してたの。だから、必ず君もよくなるよ」と。

そのおじさん然り、私が二度と経験したくないと思った大怪我を二回負った、目の前の大先輩然り、「とんでもない経験をしているのに、すごく静かだな」と、その泰然とした佇まいがかっこよく見えました。

大先輩のおじさんと話していると、全く退屈しません。時折、斜め向かいのお兄さんが、コーチのリハビリを受けています。

「あのお兄さん、声もあげずにすごいですね。僕とは大違い」と、自分のリハビリの時に尋ねると、「あの人、“向かいで先輩が二人も見てるのに、音をあげられない”って、タオルを必死にあてがって、耐えてたんだよ」と笑いながら教えてくれました。

学校生活に嫌気がさしていましたが、このほどの入院で、気持ちが換気されました。「半ば逃げるように入院したけど、それは自分が弱くなったからじゃない」と思えました。

今振り返ると、大会にはポジションを変えて出場するなり、「もっと器用な方法はいくらでもあった」と感じますが、早めの入院と休部は、あの時なりに考えた行動だったと思います。

入院の半ば、優れた体格と驚くべき筋力を持った後輩の有望株から、「アメフト部に帰ってきてください」という趣旨の熱いメールをもらいました。そんなエールを受けたら、昔ならば奮い立っていたであろうに、その文面を「熱いなぁ。この猛る気持ちが、昔の俺そっくりだなぁ」と、冷めた心で眺めている自分に「俺は、達観しているんだか、つまらい人間なんだか」と若干の寂しさを覚えました。

ほどなくして、退院の日を迎えました。「もう、この病院に戻ってきちゃダメだよ」と笑顔で言われました。チタンの棒が抜け、ボルトが外れた今、私の脚は完全に元通りになったのです。気圧の変化で傷口が疼くことが、摘出を決めた一因でしたが、今はほとんど影響ありません。

「本当に、お世話になりました」。後悔がないように、可能な限り挨拶して回り、病院をあとにしました。

秋大会の結果は、惨憺たるものだったようです。私のポジションがどうこうではなく、日頃の走り込みが足らず、試合中に脚をつる選手が続出したようなのです。「お前がいてくれても、あれじゃ、勝ちようがない」と、同期は言いました。それが、私への慰めの気持ちからではなさそうなことが、残念がる様子から窺えました。

私は、「今後について考えるので、改めて少し時間をください」と顧問に正式な休部を申し出ました。その間も、「早く戻ってきて下さい」とわざわざ教室まで訪ねてくる後輩。同期のチームメイトは、気を遣って部活のことを口にしないようにしながらも、話しかけてくれる。なんと慕われているのでしょう。

復帰の時期を考えている頃、かの少女がどうしているか、気になりました。正確に言えば、ずっと気になっていたのに、彼女を忘れようとしている自分に、いよいよ耐えかねました。あの姿に魅入った時から、私の中に鮮明に刻まれた記憶が薄らぐことはありませんでした。しかし、大怪我を負って、男としての自信を失い乾き切った私は、彼女の前に立つことに対して、たじろぐようになっていたのです。ただ、逆に、「今、あの子に会えば、自分の潤いがむしろ取り戻せるかもしれない。もしかしたら、選手さえできるようになるかもしれない」。そう考えた私は、時々、彼女のことを一緒に話していた、同じ時間に電車に乗ることの多かった友人にメールで聞いてみました。大怪我以来、私は、登校時間を意図的に早めていたので、あの子が誰で、どうしているかさえ、知らなかったからです。

私のいなかった間に彼女と話すことができたらしい彼の文面には、[…あの子は一つ上の学年で、古代エジプト文明の研究ができる大学を目指してるらしくて、受験期だったから、今どうしてるかは俺も分からない。名前は…]。「そうか。一つ上だったんだ。受験も佳境だからなぁ。会えないだろうな、もう、、」。

こうして、私の内には、かの少女のイメージと、再会を切望する気持ちだけが残りました。ただ、私は終始、「あの子と仲良くなりたい」と思ったわけではありませんでした。“理想そのもの”を目にしてしまったあの日以来、彼女、というより、“美のイデア”は、いわば私の運命を導く存在だったのです。

一ヶ月ほどの間、私は煩わしくて仕方がなく、中学でかかった、かのR国際病院に足を運び、自分の状態を話すことにしました。ことにつけて、十字架に巻きつく蛇の美しいマークが懐かしく印象的に目に映ります。

さて、診察では、私がぶつかれなくなったのは、想像通りイップスに近いものらしく、「自分がやりたいことができない場所に居続けることは負担でしかない」と、退部を勧められました。中学の時は、賢人のように見えた医師の助言が、今度は、なんだか素っ気ないものに感じ、落胆しました。医者としての立場としては、いたって真っ当なアドバイスなのですが。

私は、心にかかる負担は承知で、「俺は、アメフト部に戻る。選手でなく、主務として」と決めました。熱が戻ることまで想定し、トレーニングだけは継続することにしました。「フィールドを外から眺める時間も、身体さえ出来ていれば選手復帰に活かせる」と考えたのでした。

監督と顧問、コーチ、そして仲間に「僕は、主務としてチームに貢献する道を選びます」と伝え、チームに戻ると、皆は歓迎してくれました。

その日から、トレーニングは一緒になって頑張り、グラウンドではドリンクの準備、タイムキーパー、練習の撮影…。それまで、何かの委員や係で、頼まれた仕事をテキパキとできない要領のわるさを憂いていた私ですが、「俺一人でも、かなり出来るもんだな」と充実感を覚えました。

皆んなが楽しそうにプレーするのを見るのは、すごく複雑な気持ちです。でも、「この笑顔に一役買っている」と思うと、悪い気はしません。それどころか、少しずつ嬉しく思うようにさえなっていきました。

受験を終えた上の代が練習に顔を出すようになりますと、同じポジションでインターセプトを決めた、かの先輩が、ストップウォッチを手に合図を出している私の肩に手をやりました。「お前は、本当に凄い。俺がお前の立場だったら、とっくに辞めてる」。そう言われると、目が潤み声も震えて、うまく返事ができませんでした。

時間は瞬く間に過ぎ、私たちの代の最後の試合が迫ります。春季東京大会の初戦は、部員数の少ない高校が集まった、合同チームAでした。私たち上級生が少ないこともあり、練習試合を含めて、一勝も挙げていませんでしたから、どうしても勝ちたい一戦。涼しげながら優しい同期のランナーが、フィジカルを活かして中央突破を重ねます。

前半に、いつも明るさでチームを引っ張ってきたキャプテンが、機をつかんでタッチダウン。この戦友は、とにかくスッキリとした性格で、深く考え込みやすい私は、その明るさに何度助けられたかしれません。人望厚く、ここぞと言うところで決める。私は、「仮に自分が怪我をしなかったとしても、この男こそがキャプテンに相応しかった」と確信しています。

私が入学時から目をつけ勧誘を続けた生物部兼任の不思議な空気をかもすチーム一の巨漢を中心とした前衛ディフェンスの踏ん張りで、そのリードを守り切って勝利しました。

そして、第二回戦は、私が離脱した秋季大会で敗れた都立T高校。この試合でリベンジすれば、昨年、先輩たちに引導を渡したL高校との対戦が待っているという、漫画のような筋書きになりました。私は、怪我人が出た時を想定して、選手登録を済ませ、この日まで自主トレーニングを続けていました。ただ、その準備は、備えのままとなりました。

試合当日、こちら側の攻撃が噛み合わず、攻め手を欠きます。対して、向こうは、ディフェンスの穴をかいくぐって前進を続けます。サイドの守りが手薄なことを突かれ、次々に得点を許してしまいます。私は、相手への声援をかき消すつもりで、声の限り応援しました。

試合中盤、入部早々に腰を痛めてしまい、適正ポジションでないのを承知で投手になった友人が、敵陣の深くに渾身のパスを投げました。私が教室でうずくまった時、肩を叩いてくれた一人です。楕円形のボールは、一年次はサボりがちでしたが、二年目から急成長したお調子者のムードメーカーが手に収めました。ホットラインとは言い難かった二人の、ビッグプレーです。これを機に、相手はパス守備を意識せざるを得なくなりました。そこに、私と最初にアメフトの話をした、快足のランナーが畳み掛けます。

いよいよ勢いづいたオフェンス。しかし、波に乗るのが遅く、ゲームクロックは試合終了に近づきました。私は「出し惜しみしてたまるか、俺に声を張る以外、何ができる?喉が潰れてなんぼだ」と声を張り上げます。もはや、フィールドとベンチを分つサイドラインは、“有って無いようなもの”でした。私の心は、十二人目のプレーヤーとして、闘っていました。それが証拠に、試合終了のホイッスルがなると、昨年のような“時間差”はなく、同期とともに涙していました。

最後の円陣は、咽びが混ざった中、チームが噛み合った終盤のプレーの勢いのまま締めくくられました。

試合後、大会の会場で、三年生の挨拶です。奇しくもこの場所は、受験の第一志望だった都立N高校。その場所で、「J高校アメフト部のメンバーでよかった」と心から思うことができた私でした。グラウンドで主務をしていた時、考えていたのは、引退時のメッセージです。華々しいプレーがもはやできない私は、自分にしか伝えられないことを何とか残したいと思っていました。やがて私の番がやってきます。

「お疲れ様でした。…僕がアメフトをしようと思ったのは、小学校六年の時に、日本一を決めるライスボウルを観戦したときです。バスケ部に入るつもりだった僕は、アメフトをやるために、陸上部に入りました。高校受験は、講師たちに叱責されながら、絆を絶やすまいと頑張りました。そうして、アメフト部のあるこの高校に入ったんです。第一志望ではなく、講師たちとの関係は結果の報告もせず終わりました。でも、どうでしょう。決して伝統的な強豪校ではなかったけど、こんなに素晴らしいチームが待っていたんです。僕は、最高の居場所を掴んだと思いました。フットボールが楽しくて仕方なかったです。でも、どうでもいいところで大怪我をしました。満足に歩けないかもしれないというところから、選手復帰まで漕ぎつけたものの、ぶつかるのが怖くなっていて、アメフトが好きだという気持ちは、もう、なくなっていました。逃げるように休部して、チームに迷惑もかけました。でも、僕に居場所をくれた皆んなに、なんとか恩返ししたい、今度こそ絆を失いたくないと思って、主務になりました。正直、グラウンドの隅から、皆んなが楽しそうにプレーする姿を見るのは、辛かったです。だけど、皆んなが慕ってくれて、必要としてくれた喜びは、もしかしたら僕にとって、選手生活以上だったかもしれません。僕から、皆んなに、有用なメッセージが残せるとすればそれは、“アメフトのプレーを楽しめるのは、才能である”ということです。アメフトに関わる人なら誰もが持っているもののように思えます。しかし僕は、少なくとも僕は、その才能を失いました。もし、実力に打ちひしがれる時が来たら、自分がアメフトを楽しむという才能を持っていることを思い出してください。…僕からは以上です。本当にありがとうございました」

こうして、私の高校アメフト生活という青春は、幕を閉じました。

 

~コラム②~

青い春よ、人生とは、いつまでも青い春よ

何度も醜い赤面の過ちを犯した

そこに居るは老いを忌避していた若者

己が若さを思い出し顔をしかめることもある

そのような今もまた、いずれは過去

今この時が一番青くさいが、もっとも新しい

それを悟った今にとり、過去は価値あるもの

顔にあるは、幼さをのこした凛々しさか

未熟であるゆえに、成熟しようと思う

この青さが「若い」という美しさなのだろう

どこまでも青い春よ、人生とは、青い春よ

-Age17
-,