「十字架ならざる苦しみ」
目を覚ますと、狭い部屋に置かれたベッドに横たわっていました。状況が飲み込めず「とりあえず起きあがろう」と考えた私ですが、身動きが取れません。首をかがめると、手足と胴体が頑丈な帯で固定されています。周囲を見渡すと、木の格子が見えます。「捕まった…!」と私は思いました。腕には、点滴の針。かの英雄譚の終盤では、主人公が研究施設に捕らえられます。すぐにそのシーンが浮かんだ私は、「やっぱり、あの物語の通りになったか!」と脱出を試みますが、非常にきつく締められた“拘束帯”によって、身動きが取れません。
幻聴か分かりませんが、教団に洗脳されていたとき、挙動を指摘してくれたクラスメイトの声質によく似た唸りが聞こえました。私は、「お前を放っておいたりはしないよ。友達、だろ」とゲームのセリフを真似ます。“周囲の出来事と画面越しの物語を無理やり結びつける妄想”がここにいる理由だと判断できたら、拘束まではされなかったでしょうに。
腕に刺さっている点滴が不快で、手首を屈曲して外します。投薬を管理する装置が鳴り、看護師が入ってきます。「困ったわね」と言っているようでしたが、記憶が曖昧です。というのも、まさにこの点滴によって投与された、急性状態を治める大量の薬によって、意識が朦朧としていたからです。
目を覚ましては暴れようと試み、疲れて眠る。その繰り返しでした。どれくらい隔離されていたか分かりません。
ある意味一番安全な、医局の隣にある格子の部屋では、意識の混濁にも似た強烈な眠気によって辛さが緩和されていましたが、やがて移された広い個室での拘束時間は、悲惨でした。
薬の種類が増えたのか、身体が痙攣します。しかし、拘束帯があるので動くことができません。やがて、顎が外れるくらい強く捻れ、それに伴って歯が欠けそうなほど擦れます。拘束帯は、前後左右には固定されますが、半円状ですから、ほんの僅かの余地があり、むず痒さに耐えかねた全身がうねるように捩れます。声を出そうにも、舌が丸まって呂律が回らず、意思表示ができません。精神と身体の耐え難い苦痛を14、16歳と体験した私が形容するならば、18歳で堕ちたのはいわば“心身の地獄”でした。
そんな中で私は、『七星の拳』で、かの少女にそっくりな女性を守るために拷問を受けたキャラクターを思い出しました。そして、探し続けた相手の名を、回らない舌で叫びます。想いによって、これほどまでに人は狂うのでしょうか。
しかし、“事”は個人に対する想いという話だけでは捉えきれぬほど、それまでの人生が複雑に絡み合ったものでした。
大怪我のショックを負った身体という“錆びれた銃”があり、教団による洗脳が“引き金”だとすれば、かの少女への狂気的な憧れは、あくまでも“火薬”だった。そして、自我という疲弊しきった精神は“弾丸”で、銃自体は僅かな挙動しかしていないのに、弾のみが彷徨い出てしまった。
では、「銃の“担い手”は誰だったのでしょう」。弾は、無意味に放たれたわけではありませんでした。ここからの数年、少しずつ癒えていく感覚と共に、自我という弾丸が誰によって導かれ、どこに到達したのかが解っていきます。
手元には、ナースコールがあります。応答した男性の看護師さんが、高校一年次の担任にそっくりな声をしていたので、「これは、外界とを結ぶ機械だ」と思い、苦しい状況を伝えようとしますが、舌が回りません。開いたドアの向こうに目をやると、ボタンと天井のランプが連動していることに気付きます。「この部屋と外に見える世界は繋がっている」と考えた私は、そこを行き来する他の患者が、異界の人間だと捉え、「ぼくは何とかしてあの世界に踏み入ってやるぞ」と意気込み、それを苦しみに耐える糧としました。
病院で拘束されてからというもの、意識が曖昧で記憶が断片的なので、何日経ったか分かりません。栄養を点滴で送っている中で、浣腸をしたくらいですから、かなりの日数だったのだと思います。
拘束の後半は、投薬量が減ってきたこともあり、耐え難い震えはおさまっていましたし、何より、“理性”を少しずつ取り戻し始めていました。拘束帯をつけながらですが、最初に病院食を介助されながら食べさせてもらった時のことを、今でもよく覚えています。まだ、言葉もうまく紡げず、ぼんやりとしか思考できません。両の脚で歩けた時の感動のように、まるで幼子が初めて食事しているかのようでした。
震えの減少とともに、舌が丸まってしまう状態もおさまってきて、優しく応対してくれる看護師さんと少しずつ意思疎通できるようになり、「自分は、害されるように拘束されていたわけでないのだ」と、解りはじめます。
担当になった女性の医師もやってきて簡単な説明を受けると、「あぁ、ぼくは入院していたのか」とようやく気づき始めます。自我だけが独り歩きしていた入院時を考えると、激しい痙攣に見舞われるほどの投薬には、はっきりと効果があったようです。幼児退行したような状態ではありましたが、妄想もかなり落ち着き、理性を伴った意思疎通ができます。
「ごめんなさいね。どうしても、強い薬を使うしかなかったの」と、その若い医師は言いました。この女性が、のち十年近く治療を伴走してくれることになるのです。
拘束帯が時間制限つきで外れ、鍵付きの広い個室を動けるようになったり、非常に慎重な行動制限の解除が行われていきました。
やがて、行動範囲が鍵のかかった個室のみという条件付きで、拘束帯から完全に解かれました。
この頃、家族との面会が許可され、平日らしき日の夕刻、母がやってきました。主治医は、「お母さんが来てくれたよ。でもね、あんまり嬉しくてお母さん泣いちゃって。少し待っててね」と笑顔でした。看護師さんに案内され、母がやってきました。その姿を見るや、「あ、おかあだ!」。あれだけの出来事のあと、母に心労をかけ続けたことにも考えが及ばぬ、幼児のような私でした。
母は、面会前に時間をおいたことからも、私に涙を見せまいとしていたようですが、度重なる不運に見舞われた我が子を思いながら、その再会が嬉しく、肩を震わせながら泣き始めてしまいました。「おかあ、泣かないで。ぼく、元気だよ!おかあも、笑おうよ!」と私は無邪気に振る舞います。幼児退行していましたが、だからこそある意味においては、大人ぶることなく、純朴に接することが出来ていたかもしれません。
久しく交わしていなかった楽しい会話のうちに、面会時間が終わります。「あっという間だったなぁ。ぼく、もっと話したかった!だから、また来てね!ばいばーい」と見送る私に、嬉しげな笑顔を見せる母でした。そのあと、“おかあさん”と呼んで慕っていた病棟のベテラン看護師さんに、「本当のお母さんは、“おかあ”なのね。よかったよかった」と、ようやくの再会を祝されました。
数日の後、個室から、食堂を兼ねた談話室に出ることを許可されました。拘束帯で動けない時、眺めることしかできなかった世界です。しかし、もう、“異界”などとは全く思いませんでした。個室から出ただけの、単なる病棟の一部です。それが受け入れられるようになったからこそ出られたわけで、急性期がいかに重症だったかと、解りはじめた私でした。
しばらくすると、他の患者がやってきます。幅広い年齢、性格も色んな人がおり、誰もが親しげに接してくれました。彼らがその優しさゆえに、心に傷を負ってしまったのであろうことは、回復の途上にある私でも容易に察することができました。
幼児退行は次第に収まっていきました。ただ、まだ落ち着いた青年である本来の私ではありません。「図画工作の教師に叱られて改心していなかったら、こんな少年になっていただろう」というような陽気な振る舞いは、小5男子のそれでした。
途中、互いに病気が干渉してしまうほど患者と親しくなりすぎ、個室に戻るなど、病院の優しい職員方に迷惑をかけました。そんな重症の私から片時も目を離さず、適切な対応をしてもらったこともあり、精神状態は波打ちながらも順調に回復していきました。
仲良くなった患者も次々に退院を迎え、病棟のメンバーが入れ替わる頃には、躁状態が収まり、徐々に本来の落ち着きを取り戻していきました。この時には、他の患者がよろしくない状態にあることが察せるようになっていて、「僕もこういう状態だったのか」と省みることさえできていました。
この時期に、二つ年下の物静かな青年と出会えたことはすごく有り難かったです。入院生活の終盤は、躁から不穏へと精神状態が移行していましたから、彼と話せたことはとても支えになりましたし、人と接する通常の感覚が取り戻せました。
日常では、最上階の病棟から一番下にある売店への移動に始まり、病院周りの散歩ができるようになり、それと並行して臨床心理士によるリハビリや回復の度合いを測る心理テストが行われました。
そうして入院から一ヶ月半ほど経つと、“外泊”の許可が出るまでになりました。この時の記憶はあまりないのですが、隣家が建て直されていたり、私が放浪する前とは風景が変わって見えたことは印象に残っています。
中学で罹患してからというもの、いわば、ずっと“暗躍”していた病に、投薬という形で正式に向き合った私は、「世界が変わるという妄想は間違いで、受け取り手の僕自身が本来性を取り戻すことを、どこかで願っていたのかもしれない」と考え始めました。随分と冷静な思考ができるようになったものです。
こうして、入院から二ヶ月近く経ったころ、“医療処置入院”の期限も来て、定期診察の日程が組まれると、晴れて退院となりました。かの少女に導かれ楽園を求める放浪で行き着いた先は、幼少期から私に付き纏っていた病を根源から治療する、この病院でした。私の徘徊は、それが病的だったゆえに、治療に行き着く運命でした。そしてここから、本当の自分を快復する、とても質素で地道な“真の旅”が始まったのです。
*注14
ー閉鎖病棟は、重度の錯乱状態にあった初期の私には、監獄を思わせた。しかし、「これまで負った心の傷をすべて癒される時間を与えられた」と判るようになってからは、天国のようだった。未だに、あの空間は不思議である。「この世から隔絶した場所」という意味では、確かに天国かもしれない。しかし、重要なことは、あの場所はいわば“通過点”であって、あの病棟を-浸礼の浴槽のように-くぐったから、私は“本当の天国”を約束されたという事実である。今となっては、ただただ味わえる祝福。ただ、病棟を出て私を待ち受けていたのは「自由」ではなかった。そして、同時に「噛み締めるべき時間」であったのだー