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隣人

「苦しみの中にあった幸せ」

第三学年は、「気心の知れた人しかいない」というくらい仲のいい友人に囲まれました。学校生活は、授業に切迫感があるという風ではなくて、趣深い学びを悠々と愉しむことができ、塾で疲弊した心を癒す場所でした。

あまりいい言い方ではありませんが、“私の精神が壊れた根本原因である塾”は、ますます苛烈な課題を要求しました。とりわけ、数学は凄まじく、担当講師が、特訓クラスの責任者をしている人で、私のクラスを基準に、他校舎のカリキュラムを組んでいましたから、間違いなく、“全国で一番課題が多い大手塾の、一番課題量が多いクラス”に在籍していたわけです。これは、自慢でも何でもありません。ついていくことができていたなら、胸を張れたかもしれませんが、最初の一ヶ月は取り組み時間の量を増やしてこなせていた私も、早々にキャパを超えてしまい、時間が絶対的に足りなくなり、すっかり“落ちこぼれ”になりました。病が完治している状態であっても、ついていける自信があまりないくらいですから、あの状態では、到底無理な話でしょう。

私は、その数学講師はじめ、クラスメイトも、スタッフも、塾で出会った人たちの一人たりとも嫌いではありません。あの社会科講師のことも「学習の下地とストレス耐性があったら、幾分違ったかもしれない」と思ったりします。確かに、厳しい環境でしたし、それゆえに地獄も見ました。ただ、それほど酷な環境を強いる講師も、そこで頑張る生徒も、皆、本物の熱意に満ちていたからです。

「課題がこなせなければ寝ないでやれ」というのが、塾側の主張でした。それは、根性論でしかないですが、言い換えれば、“絶対量をこなせば受かるという理論”でもありました。ただ、精神を病み、回復途上にあった私は、ただでさえ思考の働きが鈍いのですから、睡眠は不可欠な要素でした。塾の方針が善か悪かという話ではなく、こればかりは、“合うか合わないか”という相性の問題でした。病を罹患した時点でさえ、気づくのが遅すぎたのに、なぜ通い続けたのでしょう。それは、環境は全く違えど、私にとってあの塾が“もう一つの母校”のように知らずのうちに思えていたからでした。

SKクラスと呼ばれる、私の所属する特殊校舎の特訓クラスでの日々は、火曜日から金曜日の学校後に直接、課題をこなすために自習室に向かい、その後、通常授業を受けるというもので、さらに土曜日の日中に特別補講と夕方からの授業、日曜日には必勝クラスという半日かけて開かれる私立最難関に特化した講座がありました。加えて、都立が第一志望であった私は、理社の授業が月曜にあり、言葉違わず毎日が塾でした。

いくら効率をあげて時間を作ろうとしても、この日程では、睡眠時間を削るほかありません。しかし、体質的に私には取れない選択です。ですから、どのように授業についていくかを考えるでなく、私が取るべきは、環境を変えることでした。しかし、もうすっかりこの塾の熱血講師達に感化されていた私は、「先生達との関係を疎かにしたくない、どうしても絆を断ちたくない」と思うようになっていました。

精神をやつした時より、さらに過酷なスケジュールになり、悪化してもおかしくない病状は、たしかに本調子ではありませんでしたが、下がり気味ではありませんでした。病気であるという自覚があったこと、その理解がないゆえの苦しみはもはやなかったこと、あるいは多忙すぎてメーターが振り切ったのか、多くの要因が関係したと思いますが、受験勉強が継続できないまでには、病は干渉しませんでした。

しかしもはや、“優等生”と呼ばれた頃の自分、“勤勉”と讃えられていた自分などいません。誇りなどなく、ズタボロになり、カリキュラムに引きずられながら、私は受験期を走りました。期待に応えたい講師には「なぜお前は、こんなにも頑張れないんだ」と呆れられ、「敬愛するあなたを、罵りたくないのに無下に扱う、こんな病気と対峙しながら闘っているのが、あなたに解りますか」と言いたいところを抑えては飲み込み、居残った一人きりの教室で悔し泣きしました。そういった苛烈な日々を、かの戦友と励まし合いながら、それでも走ったのです。

本格的に私立入試が始まる二月に入る前、私は、中学の担任には「まず厳しいだろう」と言われていた、千葉県でも最難関校の一つであるT大附属高校に受かることができました。これは、幸運としか言いようがありません。私立には珍しく、入試科目として、英国数に加えて理科があり、これがネックだと思っておりましたら、病を罹患した原因ともなった、理社の上位クラスに振り分けられた時期に重点的に学んだ元素記号の問題が沢山出たのです。

これで、すっかり安心した私は、気を緩めることはなく、落ち着いてその後の受験に向かうことができました。本格的な入試が始まる前にあった、“決起会”なる送り出しの催しのことは、今でも忘れません。大人の男性が、あんなに涙するのを見たことは、それまでありませんでした。終始、泣きそうになるのをギリギリで堪えていた私も、教室をあとにするときに講師と握手する際には、涙が溢れてきました。

私は、アメフト部がある高校に行きたかったものですから、何とかそれを達成したいと思っていました。入試日程の半ばに受けた、J高校に受かりましたので、アメフトはできることになりましたが、ここからが本番です。すべての入試の最後に試験がある都立高校は、なかなかの強豪校だったので、どうにかして通りたかったのです。

今でも、入試当日のことをよく覚えています。二月末なので、とても寒くて、カイロで身体を温めながら会場に向かいました。試験が始まるまでは、過去問のテキストに文章を書いて自分を激励しました。試験中は、自分の持てる力はしっかり発揮できました。三年間の努力を発揮し切った、その帰り道の開放感といったら!

数日後、学校に親から電話が入りました。職員室に呼ばれた私は、伝え辛そうな面持ちで察しました。「結果は、残念だった。病気をしながら、本当に頑張った。立派だ」と、尊敬する担任の先生から励まされました。

要因は明らかです。塾のカリキュラムを完璧に踏襲できていれば、確実に通っていたでしょう。でも、こればかりは仕方のないことです。

本当ならば、塾に直接、合否を伝えることになっていました。しかし私は、決起会を最後にしたかった。あの会で講師達は、「受からなかった子たちの姿が…」というメッセージを涙ながらに語っていました。でも私は、自分が受験に敗北したなど微塵も思っていないので、報告に行くことが、負けを認めるようで我慢ならなかったのです。最後の挨拶はしたかったですが、慰めなど一切必要ありませんでしたし、別れはあの会だけで十分だと思った次第です。とはいえ、結局は、あんなに大事にしていた講師たちとの絆が本来的な形で保たれることはありませんでした。

私は、アメフト部のあるJ高校に進むことを決め、高校受験は幕を閉じました。入試が済んでからの時間は、学校が楽しくてたまりませんでした。

最後の登校が終わると、十人近い馴染みの友人達と駅近くの公園で過ごします。塾の自習室に向かう前、ほんのわずか、この場所で皆と遊ぶことが支えでした。春には温かい日が差し、夏には蝉の鳴き声が響き、秋は涼しさが心地よく、冬には凍てつく空気が身に染みました。そこには常に、友人たちの笑顔と元気な声がセットでした。

私は、附属高への進学は決まらなかったので、他の数人同様、「高校が一緒じゃなくても、いつでも会おう」と約束して、駅を後にしました。

こうして、若さゆえの葛藤と祈りの苦闘に立ち向かった中学時代は終わったのです。

 

~コラム①~

信仰に至る私の道のりは「神はなぜ人生に苦しみを置かれるのか」という疑問に終始すると言えます。

その神学は旧約では『ヨブ記』がまさに扱っていますが、答えは主イエスが喩えられた“放蕩息子の帰宅”にあるのではないでしょうか。

人が「不条理だ」と叫ぶことに、神は応答しません。それは永遠の計画に基づいた観点から一部分を切り離す(強い言い方をすれば)“エゴだから”です。

このことは「神は人間が姦淫することをよしとする/ことがない」の“ことがない”を神のご性質から切り取ることに等しい。

そのことを私が「エゴだ」という言い方をあえてしたのは、「神に握られた運命を人間が閉ざしてはいけない」という“痛切な意識”があるからです。

迷いに迷い、悪を行い、苦しみ…。そうして“帰宅する”ことで「それまでの道のりゆえに、家の温かさがわかる」というのが聖書における“意思の思想”です。

神が人間の尊厳である意思を尊重しておられるから、恐れ多くも不満を抱えることが“できる”のだと。

大切なのは「不/条理」については接頭辞である“不”をとってよいということ。神の観点からは条理の一部に過ぎないことを人間が断定するのは危険です。

それというのも、私には、並大抵の人よりは遥かに「どうしてだろう?」と神と対話して答えを得た-誰よりエゴイストだった-自負があるから。

転ぶと痛いことを知っていて、積極的に転ぶ人はいないでしょう。「人は転ばざるを得ない場面で転ぶ」。しかし、その理由を積極的に考えないと、おそらく、また転ぶ。

かすり傷なら手当てすればいい。私は“考えなかった”から重症を負うことになりました。しかし、致命傷ではなかったので、こうしてメッセージを書いているのです。

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