「絶頂からの転落」
全国高校アメリカンフットボール秋季東京大会の前日は、J高校の体育祭でした。これといった準備はほとんどなく、三日前あたりから少々予行をした程度です。この高校で体育祭は、大したイベントではありませんでした。しかし、この行事で私はとんでもなく大きな損害を被りました。
体育祭の当日は、大会の前日ですから、グランドの整備が要らない程度の朝練が許可されました。
その日は、朝に腰の違和感があって心配になったこともあり、少々もたついてしまって部室での集合にやや遅れました。先輩たちは、「お前が遅れるなんて珍しいな、焦らずに準備運動な」と怒りもせず心配の声をかけてくれました。「これはあとで謝らないとな…」。そう思いながらグラウンドに出て、大会への最終調整をしました。
朝のホームルームが終わり、順番にグラウンドに出ることとなりました。アメフト部は、生徒が競技の邪魔をしないように陣取ることを任されていて、そこに待機して、自分の種目になったらその都度移動するという流れになっていました。
やがて外の雲行きが怪しくなってきて、ほどなくして雨が降ってきました。そんな時、私とチームメイトの一人は、障害物走に同じレーンで出ることになっていたので、移動をはじめました。
その際に、「俺、今日、腰が重い気がするんだよなぁ」という話をして、「まぁ、他校から女子が来てるかもしれないし、せっかくなら一番を目指すわ。勝負な」と調子づく私。その僅かな体調への心配と、積もり積もった自己顕示欲がよくない方向に働いた油断…。このことが、夢のような高校生活から、私を醒めさせてしまうのでした。
私のレースは、四番目くらいでしたが、自分の番がやってきました。同走のチームメイトに再度、「競争、な」と告げると、何やら不穏な空気を察知しました。何か、グラウンドがぼやけている感じがしたのです。コンタクトスポーツに取り組む中で、以前より肝が据わった私でしたが、何か緊張していました。この不安の正体もわからぬまま、走り始めると、トップで飛び出しました。そして、コーナーに設置された跳び箱に差し掛かりました。体育の時間はいつもヒーロー、100キロを超えるバーベルでスクワットをしている私です。跳べないはずがないのです。しかし、跳び箱の前に来て踏み込むと同時に手をついた瞬間、私の意識は飛びました。おそらく、跳ぼうとした瞬間に雨で濡れた地面に足を取られ、あまりに崩れた体勢に脳が動転し、意識が曖昧になったのでしょう。
一秒も経たない間でしょうか、大木が折れるごとき残酷な渇いた破裂音とともに、地に伏した私は意識を取り戻しました。
私は、何が起きたか察しました。それと同時に視界に飛び込んできたのは、原型を留めず、グニャグニャに折れ曲がった左の太腿。「あぁぁあぁぁ!折れた、折れた…!」。私は、訳もわからず絶叫します。体裁を取り繕う余裕などありません。
初めてのタックルを決め、歓喜の声をあげたそのグラウンドで、私は絶望の嘆きを響かせました。すぐそばで待機していたアメフト部の仲間のことは、もはや考えられません。状況を飲み込むことに必死でした。急いで担架に乗せられ、保健室に向かいます。脚は、電気が流れるように痺れています。私の脳裏には、背広に車椅子で会社に向かう自分の姿が浮かんでいました。
そして、保健室のベッドに運び込まれます。救急車が手配され間も無くやってきましたが、その頃には、脳内麻薬で麻痺していた、とんでもない激痛がのぼってきました。それもそのはず、私の左脚は、太腿が真ん中で完全に真っ二つに折れていたのです。
救急隊の人に、「痛いよな、頑張れ、我慢してな」と言われると、私も覚悟しました。救急車に乗り込むとは、折れた太腿が動くということ。激痛が私を襲い、痛くて泣くとかいう次元ではなく、叫び声とともに涙が吹き出します。
救急車は、N病院が満床ということで、B中央総合病院に向かいました。救急車に乗ったのは初めてですが、パンクしないようにタイヤが固くなっているため、地面の揺れが折れた脚に伝わってきます。同伴の英語教師は、他人事のような態度でしたが、彼なりに明るく繕おうとしてくれていたんでしょう。私は、無理やり笑いました。そうでもないと、「今度こそ俺は絶望で狂ってしまう」と思ったからです。
やがて、病院に着きました。今度は、病院の移動式担架に移ります。ここでも、短く絶叫します。処置室で痛み止めの点滴をすると、発疹が出て使用中止に。気休めだったとしても、使えていたら幾分かは楽だったでしょうに。
そこから、最大級の苦しみに向かいます。レントゲンです。私は、一方向から多角的に撮れると思っていました。今がどうかは分かりませんが、その当時は、折れた脚を複数の角度に動かさねばなりませんでした。中学での精神的な生き地獄から脱出した私は、高校では身体的な生き地獄へ転落しました。
この世のものとは思えぬ激痛。もはや、形容することはできません。意識が飛びそうです。いっそ、飛んでくれたらどれだけよかったか。
あまりの痛みに、これ以上ない金切り声が出ます。スタッフにタオルを口に強くあてがわれ、吹き出す涙には、痛みの度合いとともに人生への絶望が反映されていました。
そのあと整形外科病棟へ運ばれ、筋肉に突き刺さった状態の骨を真っ直ぐに伸ばして、膝の骨に小さな穴を開け金具を通して錘で伸ばす処置を受けました。脚が動きますから、叫びます。学校から連絡を受けて駆けつけた母と、同伴した担任は、あまりに悲痛な様子に平静ではいられなかったらしく、後から聞いたことには、私の叫び声は近くにいた少年を怯えさせるほどだったようです。
ほどなくして、病室へ運ばれました。看護師に、「うるさくてすみません」と、もはや面子などありはしない私は申し訳なさそうに言いました。「そりゃ痛いよ~」と一人が言うと、他の皆が相槌を打ちました。「でも、出産に比べたらねぇ」と、ベテランらしい女性が言いました。この時から私は、世の全ての女性に対して格段の敬意を持つようになりました。
しばらくすると、ようやく諸々の処置が終わり、私も状況が飲み込めてきました。「もう二度と歩けない」ということはないがしかし、「再び歩けるまでには、途方もない時間がかかること」など。気が遠くなりそうなので、考えるのをやめました。そして、「俺の人生はいつもこうだ…天国をみては、それが無に帰すほどの、悲惨な地獄に投げ込まれる」。今度は、無意識に吹き出すでなく、自分の運命を呪って静かにすすり泣きました。
横になった状態から全く動けない私は目視できなかったのですが、左の腿は大きく腫れ上がっていたようです。そこからの時間は、その炎症に伴う発熱と倦怠感にうなされ、意気消沈して仰向けになっていることしかできませんでした。当然、トイレには行けません。初めて尿瓶を経験しましたが、排尿もうまくできない自分の状態に、目元が潤みました。
寝たきりですと、床ずれが厄介です。一切動くことはできませんから、クッションをあてがってもらうほかありません。三十分おきくらいに位置を変えては、じんわりした疲れに耐えかねて低く唸っていました。
病室に移ってからの数日で、特にきつかったのは、夜です。39℃を超える熱が出ていましたし、人体で一番太い骨が折れているわけですから、いつものように寝付けるはずもありません。21時に消灯すると、夜がとんでも長く感じます。「四、五十分は経ったか…。眠れる気配がないな。時間を聞いてみよう」とナースコールすると、やってきた看護師さんに「消灯からまだ十分も経ってないよ」と言われ、「本当ですか…?」と思わず疑ってしまいました。
それから、「さすがに、三十分は経っているよな」と思うと、「五分しか経っていないよ」と、同情と呆れが混ざった返事がかえってきて、「これはもう、辛抱するしかない、ひたすらに」と覚悟を決めました。ナースコールは申し訳ないからやめたのですが、尿瓶を交換してもらうときに時間を尋ねると、数回のやり取りの後、ようやく22時を回ったようで、そこで安堵したのか、気づけば朝になっていました。
目を開くと、脚に鈍い感覚があり、「そうだよな…夢じゃないんだよな」と途方に暮れます。夢のような時間はすぐ覚めるくせに、悪夢のような現実は一度立ちはだかると退こうとしません。何とも厄介です。ただこれは、一時の喜びに浸っていたがゆえであっても、自己顕示欲にまみれてしまった私に起こったことですから、残酷が過ぎますが、因果応報です。
翌日、点滴が落ちなくなって、針を刺し直すことになりましたが、当時の私は血管が浮きづらかったので、この日以来、入院中ずいぶんと看護師さんの手を煩わせてしまいました。
相変わらず発熱は続いていますが、倦怠感はいくらかマシで、病室の様子に目をやれるくらいには余裕がありました。もはや、「今までの頑張りに対して、休めという合図なんだ」と思って横になっていました。途方もないリハビリの道のりを考えながら、という“おまけ付き”ですが。
ほどなくして、理学療法士がやってきました。他の患者さんとフランクに話している様子を見るに、優しい女性なのかと思っていたら、たしかにその通りですが、使命感に根差す厳しさも伴った人でした。そのことが分かるのは、手術後でした。
「今日は、折れていない右脚の力が落ちないように動かして、あとは、松葉杖がつけるように上半身の筋トレを宿題にするよ」と、その日は終わりましたが、数十キロのバーベルを持ち上げていた私が手渡された重りは、僅か2㎏…。悔しすぎて、吠えたいほどでした。「今頃は、皆んな秋大会を戦っているのに」。ようやくここで、アメフト部のことが浮かび、思い出したように携帯を見ると、メールが何通も入っています。「自分の治療に集中しろ」という先輩からのメッセージが沁みました。
応急処置を担当してくれた穏やかな研修医は、医大のラグビー部所属らしく、「大丈夫、またアメフトもできるようになるよ」と励ましてくれて、とても嬉しかったです。でも、努力で強い選手になろうと燃えていた私も、振り出しどころか、スタート地点のはるか前まで落ちましたので、いくらなんでも道のりが遠すぎて、自分の青春がつくづく嫌になりました。
ただ、この考え方は、少しずつ変わっていきました。もよおして、ベッドで排泄することも体験し、抑圧の反動で膨張した自己顕示欲が欠片も残らないほど拭われる代わりに、「今まで歩けていたことがどれほど幸せだっただろう。ましてや、走ってぶつかってなんて、恵まれすぎている」。そう考えるようになったのです。
家族が見舞いに来て、執刀医との面会もありました。随分と若く、爽やかでとても端正な顔立ちの、スラリとした男性でした。「この先生で平気かな…」と失礼な詮索を内心ではしていましたが、この先生はれっきとした名医でした。
入院して三日経った頃、いよいよ手術ということで、前日の夜から水さえも口に含めなくなりました。氷を舐めて吐き出す、あるいは、湿ったタオルで口内を拭うことはできましたが、ここでも、「水を飲めるだけでもいかに幸せか」と感じたものでした。手術は、全身麻酔です。事前に細かい説明を受けましたが、やはり緊張します。心がざわつくまま、ベッドが手術室に向かいます。厳重な扉が開き、奥に入っていきました。
「手術台への移動が、君が感じる最後の痛みだよ」と言われ、覚悟して一瞬の激痛に耐えたのち、いよいよ手術が始まります。呼吸用のマスクをつけられました。「気付けば、終わっているからね」という助手の声と、かの執刀医の涼しげな笑みを見て、静かに意識が遠のいていきました。
何かしらの夢を見る睡眠とは違う、“完全な無意識のうちに時間が経過する”というこの経験は、のちに大きな意味を持つことになります。
さて、周囲の声に目を覚ますと、病室に戻っていました。麻酔が残っているので、ぼんやりしており、家族が来てくれていたことは覚えていましたが、無事に終わった安堵も相まって、そのまま眠ってしまいました。
翌日、同じ病室のひょうきんなおじさんに聞いたことには、「大丈夫よ、必ずうまくいくから」と元気づけて送り出してくれた母は、そのあと、私の不遇を思って、かなり長い時間、泣いていたようです。掃除のおばさんにも、「アタシはここへ来て長いけど、あんなに健気な母親見たことないわよ。お母さんを大事にしなさいね」と言われました。
夜は、術後の痛みと炎症が苦しく、痛み止めの注射を打ってもらいました。また、床ずれが酷く、「起き上がりたい…」としきりにつぶやいたものでした。でも、脚には今、チタンが無事に入ったのです。心持ちがだいぶ違います。
夜に寝付けないのは、もう仕方ないと思ったので、尿瓶の交換を夜勤の看護師さんにお願いしながら、時間を聞いてはまた暗い天井を見るという繰り返しです。
わずかばかり眠ったようで、翌朝になりました。排尿カテーテルを外すのに随分と臆病になりましたが、外してもらうと、やがて医師の回診があって、威厳のある外科部長から「よく頑張った。術後の痛みはあるだろうけど、経過をみながら、そのうちに少しずつ体重をかけられるぞ」と言われました。最後に、執刀医が「よかったね」と爽やかな笑みを見せました。「この涼しげな佇まいの先生が、脚をつないでくれたんだ」という感謝の念を、私は笑顔に込めました。
二時間後くらいに、理学療法士が来ました。「折れた脚は、体重をかけることでくっつくけど、まずはベッドから車椅子に移る練習ね」ということで、右脚を左足首に当てがい、臀部を支点に腰を回してベッドの外に脚を降ろす練習からリハビリが始まりました。
まず、起き上がることすら五日ぶりくらいの私は、生来の臆病さもあって、「起き上がっても脚は平気なのですか?」と尋ね、「平気だよ」と言われても、もたついてしまい、ちょっとだけ呆れられてしまいました。しかし、なるほど、錘で伸ばしたうえチタンの棒が入った脚は、神経質になり過ぎなくてもいいようでした。ただ、動かすと術後の鈍い痛みがあります。「そんなに慎重じゃなくても大丈夫!」と言われるのですが、やはり、痛みは酷いですし、たじろぎます。
やがて、ベッドに座ることができました。ずっと寝たきりだったので、頭がぐるぐるします。「このタイミングで気持ち悪くなってダウンしちゃう人が多いけど、やっぱり若いねぇ」と言われ、少しばかり得意げになりました。そこから、慎重に車椅子に移ります。動かし方も、数日後には慣れた私でしたが、最初は上手くいきませんでした。
勝手が分かると、トイレまで行く練習をします。便器にギリギリまで接近して、手すりにつかまり、右脚を軸に座ります。左脚は地面につきませんが、伸ばしているだけでも鈍い痛みがあります。「これは大変だ…」。
その日のリハビリからトイレは自力で行けるようになりましたが、移動までの時間含め、体感で30分以上の感覚で、「ものの数十メートルの移動ができるのだって、当たり前じゃなかったんだ」と、歩けることを当たり前に思っていた自分の浅はかさを心底、反省しました。
それからは、毎日リハビリです。左腿の筋肉は、中学時代から鍛え上げていたゆえ筋肉が非常に発達していたため、その分、折れた骨が深々と突き刺さったことによる損傷は甚大でした。「筋肉がなかったら、確実に解放骨折でしたね」と医師たちは言っていたようです。
その傷ついた腿は、マッサージをしなくては、固まってしまいます。炎症があろうが、強く手で押してもらわねばなりません。それだけでも、「うぅ…」と、顔をしかめて堪えます。
しかし、何よりきつかったのは、膝を曲げることです。脚の筋肉が損傷することは、それと連動する膝の屈曲が困難になるということでした。更には、筋肉が硬くなれば、曲がらなくなってしまうという“制限時間つき”です。
少しずつ入院生活に慣れ、リハビリセンターに車椅子で向かうことなど、できることは増えましたし、マットへの移動、仰向けからうつ伏せになることなどを習得していきましたが、膝の屈曲は恐怖の時間でした。膝を曲げれば、損傷した筋肉が動きます。運び込まれた時の担架からの移動を考えれば、微々たるものですが、あの痛みが“異常”なだけで、このリハビリも十分に「痛い」です。さらには、「頑張らないと膝が曲がらなくなる」ことからくる切迫感が、「少しでも曲がるように耐えなければ」という焦りと「今日も、怯えてあまり曲げられなかった」という不甲斐なさを呼び起こし、精神的にも辛いものになりました。よく、アスリートのリハビリドキュメンタリーなどを目にしましたが、その道の一流選手でさえ“厳しいリハビリ”と形容する理由が、よく分かりました。
毎日、リハビリの時間が来るというだけで嫌になります。「痛い、痛いぃ…」と金切り声をあげて、半泣き状態です。「あのおばあさんなんて、股関節を骨折したのに、弱音は吐かなかったわよ」と、檄を飛ばされます。
この療法士の女性は、たしかに、厳しい人でした。本人も、「私はきっと、鬼だと思われるわね」と言っていました。しかし、この“鬼コーチ”からは、「この男の子を必ず以前通りに歩けるようにする」という信念が伝わってきたので、とにかく我慢してついていきました。今思えば、中学時代に本来の力が発揮できずに叱責された時と違い、“自分自身がもつ真の力量”が試されていたから、コーチの指導に弱音を吐く自分をあんなに悔しがりながら、必死になって頑張ったのだと感じます。
日が経って、傷口の抜糸なども済んで、脚に体重を乗せる許可がおり、“三分の一荷重”となりました。体重計に乗り、20kg目盛まで体重をかけます。寝たきりで全身の筋肉がごっそり落ちた私は、74㎏あった体重が57㎏になっていました。
そこから、松葉杖の練習をします。平行棒から始めるとは知らず、松葉杖をつくのにも練習がいることに驚くとともに、なかなかに技術がいることが分かりました。
膝の屈曲では、自分の弱さを露呈していた私ですが、ここに来て“練習の虫”である強みが発揮されました。「少しでも多く練習すれば、骨に体重がのって回復が早くなる」と言われた私は、その日を境に、ひたすら病院の廊下を松葉杖で往復し続けました。やることがなく、エネルギーが余っていたこともありましたが、それ以上に松葉杖ながら歩けることが嬉しく、「少しでも早く治すんだ」という強い気持ちが湧いてきたのです。
散々声を上げて苦悶する姿を露呈していた私は、知らずのうちに、「よく頑張る子」として認識されるようになりました。少し厳しめの副師長にも、「少し強くなったんじゃない?」と言われました。
自己顕示欲の覆いが外れ、自身の弱さに直面した私は、「脆弱な僕の強みは、地道な積み重ねにあるのかもしれない」と思うようになりました。
入院生活は、辛いリハビリと地道な歩行練習を重ねるうちに過ぎてゆきます。
二分の一荷重まできて、膝の屈強も最低ラインの90°を超えると、階段の練習に入りました。これをクリアできるかが、退院の目安でした。膝周りの筋肉も自主トレーニングしていましたから、最初こそ力が入りませんでしたが、少しずつ練習して、松葉杖を駆使しながら登り降りできるようになりました。
こうして、いよいよ退院する日が来まり、待ち遠しかったその日は来ました。
一ヶ月半もいると、病院に愛着が湧いてしまって、離れるのが少し寂しいくらいでした。入院中つけるICのバンドを切ってもらった時のことを、よく覚えています。その勝気な看護師さんは「じゃあ、一年後だね」と言いました。そう、骨が完全に治ったら、脚に入れたチタンを外すのです。私は、「またお騒がせしますが、少しでもマシになっておきます」と伝えて、お世話になった職員さん達に見送られつつ、病院をあとにしました。
母と自宅へ向かっていると、病棟で歩くのとは勝手が違いますから、なかなか大変でしたが、松葉杖でなくとも決して近い距離ではありません。足繁く見舞ってくれた母のことを、本当にありがたく思いました。母だけでなく、家では、弟が家事をしてくれていましたし、父と祖父は私のことを心配しながら懸命に働いてくれました。祖母や叔父、親類も、たいへん気にかけてくれました。あとで副担任から聞きましたが、私の担任が「あいつの退院が決まったぞ」とクラスに伝えると、拍手と歓声が起こったそうです。私は、なんという幸せ者でしょうか。こんなにまで恵まれていることに気づかないままだったら、それこそは本当の悲劇でした。
私は、脚を折り、腿の番には大きな傷痕が残りました。しかし、脚は治ったではありませんか。そしてどうでしょう、「自分は今まで、どんなに恵まれていたことだろう」という学びと幸せを得ました。勉強代は、とんでもなく高かったです。しかし、これほど深い学びは、滅多にできるものではありません。
これが、私にとって十三年ぶり、人生二回目の入院の記録です。
*注7
ー私が病院で体験した「数分が数時間に思える」苦しみは“相対性理論”を強烈に思わせる。この理論を根拠に“科学優位”を説く人は多いかもしれない。私は“どのようにして”時間が長く感じたかについては「人体で最大の骨が折れて、炎症を起こし、40度の熱にうなされているから」と答えられる。しかし、“どうして”「手をついた途端に意識を失い、たった6段の跳び箱から落ちただけで、二階からでも転落しなければ折れない大怪我を負ったのか」を説明できない。預言者ヨナは、自分が魚に呑まれ「生きた心地のしなかった」三日間が、自身への罰とは思えても、メシアの復活を予表していたと解っただろうか。まして、預言者でなく信徒でもなかった私が、この大怪我に神の御手を覚えることが、どうしてできるだろう。そして、誰に言われたでもないのに、御手によるものだと解ることが、神以外の誰にできるだろう。私がそのように思うわけを、引き続き示させていただきたいー