Age19-20

「癒せなかった」

私が入院している間にも、祖父の病気はゆっくりと進行していました。ただ、非常に緩やかなスピードでしたので、私が戻ってきてもはっきり意思疎通ができました。自宅療養初期の私が、脱力感にめげずに保健室登校できたのも、一切の音をあげず病に抗う祖父の姿を間近で見ていたからだと思います。

幼い時から、食事の時間になると、階下にある歯科医院の職員用ドアに“おしょくじのよういができています”という札を下げにいくのが楽しみでした。小柄な祖父が笑顔をたたえながら上ってくるのが待ち遠しかったからです。帰る時には「ごきげんよう!」と言って投げキッスをするお茶目な祖父ですが、その人生は私の半生がかわいく見えるほど過酷なものでした。

学費を自分で稼ぎながら大学に行き、大空襲を命からがら生き残って、過労という概念がないかのよう働いて歯科医院を切り盛りしました。そういった話は、父から聞いたもので、祖父は孫である私にはほとんど語りませんでした。自身の境遇に打ちひしがれず前進し、“屈指の名医”と讃えられても驕りも飾りもせず、淡々と仕事をする。真面目一辺倒かと思えば、人当たり穏やかで、ユーモアを持ち合わせている。齢80を越えても現役で、仕事が終われば、栗きんとんを用意して相撲を見ながら、学校から帰宅した孫と一緒に楽しくお茶をする。私の中には、そんな祖父への憧れが知らずに刻まれていたのかもしれません。だから、「何が起ころうとも、どうにかなる」と思えたのだと。

祖父の闘病は、最後の一週間ほどは昏睡状態になってしまいましたが、それまでは起きている時間、すぐ隣で話すことができました。もし私が大学に通っていたら、側であんなに語らうことはできなかったと思うと、「療養もわるいもんじゃないな」と感じます。

次第に時間が限られてきた頃、祖父自ら「遺影を撮る」と切り出して家族写真を撮影しました。

そして、私が19の誕生日を迎えた十日後、祖父は天に旅立ちました。印象的だったのは、訪問看護の女性が臨終を告げた時に、祖父の顔が微笑んでいたことです。息子と娘の家族が全員揃って、その様子を見届けました。「この最期が、この人の生涯すべてを物語っている」と父が感嘆している横で、私は大きく頷きました。“大往生”を目の当たりにした私には、悲しみにまさって、尊敬の念が湧いていました。

祖父の姿をみて、「必ず寛解する」と意気込んだ私は、華々しい生活をする友人達を尻目に、その後も根気強く療養を続けました。この時には、“漠然とした不安”という、“理由もないのに何かに心を押さえつけられているかのような不穏”にさらされる症状に苦しんでいました。「不安がない人なんていない」というのは重々承知なのですが、この病でいう不安は、理由がないために、具体的な行動による対処のしようがなく、解決を薬に依存するしかないというのが非常に厄介でした。体質の個人差から、数ある中から効き目のよい薬に出会うのも難しく、服薬を試せばそれだけ、副作用と身体への負担も強くなります。

二週に一回の経過観察で、「疲労感がずっと付き纏っています」、「不安が強いと、横になって耐えるほかないです」、「頭が働かなくて何も手につきません」など、主治医に事細かく状態を伝えながら、およそ二ヶ月単位で少しずつ薬の調整をしていきます。“主治医にいかに正確な状態を伝え、薬の種類と量の繊細なバランスをとりつつ、自分に合う薬を見つけながら減薬していくか”という地道な作業が、療養生活の要でした。途方もない道のりでしたが、大怪我を負って歩けるようになるまでのことを振り返ると、「何のこれしき!」と思えましたし、「この病が治ったときは、怪我のショックも含めて克服したということだから、本当の全快なんだ」という希望が見えました。何より、母がつきっきりで看病してくれたことが支えでした。病のなかにあって、漠然とした不安にさらされていても、母と話していると落ち着きました。思えば、小学校以来、こんなに長く母と温かな時間を過ごしたことはありませんでした。このゆったりとした時間は、ありふれた日常のように思えました。しかし、このささやかな幸せに満ちた時間は、療養の二年目に取り去られてしまったのです。

私が家族に20歳を祝ってもらった年の暮れ、母は「お腹がちょっと痛い」と不調を訴えました。近くの病院を回りましたが、痛みが増すことはないものの症状が改善しないので、母の実家近くの大きな病院で検査をすることになりました。この間、僅か二週間ほど。そして、検査で卵巣に悪性腫瘍が見つかり、直ちに、東京でも屈指の大病院に入院することになりました。私も家族も大変たじろぎましたが、母が腹部の違和感を覚えてから早期に発見できたことから、治療すればよくなるだろうと踏んでいました。しかし、その期待は裏切られました。母を襲った悪性腫瘍は進行速度が尋常ではなく、違和感の症状があらわれた時には既に末期に近い状態だったのです。卵巣の摘出手術はうまくいったものの、既に転移が始まっており、抗がん剤を使ったとしても撃退しきることはできないと担当医から言われました。

あまりに突然の出来事で、驚く間さえもありませんでした。ただただ、「信じられない。信じたくない…」という心境でした。告げれた余命は、約二ヶ月。そんな話を、おいそれと受け入れられるはずがありません。皆で必死に治療法を探します。そんな中、非力な私ができるのは、ただただ、母のもとを訪れること。「お母さんが僕の身を案じていた時、こんな心境だったのかな」と考えながら、毎日、病院に通います。

「療養中で疲れていようが、僕がお母さんの前で元気のない姿を見せるわけにはいかない」と意気込むのですが、どうしても疲労がやってきます。「無理しなくていいの。お母さんは、その気持ちだけで嬉しい」と母。車椅子でしか移動できない状態の母が「ほら、難しかったけどこんなに上手に運転できるよ。のり君、大変だったね」と言います。私は、何も返すことができません。

今まで、どんなに肯定しようとしても、どこかで自分の運命を呪っていました。「僕は大変な道のりを歩んだ。でも、災難があろうとも、命を失うことはなかった。精神疾患がなんだ、大怪我がなんだ、命があるじゃないか。だから、すぐそばで、この上なく優しいお母さんの支えを受けられたんだ。生きていれば、何とでもなる。だって、最愛の人がいてくれるから…」。でも今、目の前で、まだ47歳の、愛する母に死が迫っています。

抗がん剤の副作用で、髪の毛が抜けていきます。「お母さん、坊主になっちゃった。へへへ…」。幼い時から、「今日、美容室に行ったでしょ!」と言い当てると、すごく嬉しそうだった母。強がらなくていいよ…。もう、いいよ…。

毎回、病室を離れる時に、「僕の力を分けてあげるからね。魔法の握手だよ!」と空元気を出し、想いの限り長く念じながら、母の手を握ります。日に日にか細くなっていく母の指に、時が近いのを知ります。「こんなことなら、代わりに僕の命を奪ってくれたらよかったのに!どんな残酷な仕打ちだって、いくらだって代わりに受けたのに…」という悔しい思いが湧き立ちます。

やがて脚に癌が転移し、ベッドの上での移動さえままならなくなりました。「いたたた…」と呟く母の姿を、直視できません。とにかく、明るく振る舞いました。母を元気づけようと思ったのもありますが、何より、母との別れが近かったから。「ふふふ…」と笑う母。「本当に優しい子」。その言葉に、うまく返事ができません。「僕は、あなた以上に優しい人に会ったことはない。署に向かったあの日、我が子を想って必死に説得してくれたあなたに、ペットボトルの水を浴びせかけた僕が、優しいはずあるもんか!」と心の中で悔やみます。

病院で施せる処置が尽くされると、祖父を看取った訪問看護師が病室にやって来ました。本当はとても繊細なのに、家族の前では一切の涙を見せずに気丈に振る舞っていた母も、いよいよ自分が家族と別れねばならないことを感じ取り、嗚咽して泣きました。私が入院するまで、「生きるのが辛い」とこぼすことがあった母。自室には、人生の悩みに関する本が山積み。でも、本当は生きたかったんだ。当たり前だ。弟はまだ成人もしていない。僕はまだ、寛解した姿を見せられていない。一緒に速読教室に行こうって約束してたところじゃないか。旅行しようって、楽しく話してたところなのに…。私は病室を出ました。見ていられない。残酷すぎる。

「僕みたいな悪党に不条理が降りかかるのはよく分かる。でも、お母さんが何をしたというのだろう!あり得ない。こんなことあり得ない。今度こそ、わるい夢だ。明日には醒めるだろう」と思いたくて仕方なかったです。でも、すぐに現実を見ました。当の母が、真っ向から悲運に対峙しているのに、私が目を背けるわけにはいかなかったから。

母の自宅での緩和ケアが始まりました。延命ではなく、医療大麻を用いての、苦しみをできるだけ少なくする処置です。段々と、母と意思疎通ができなくなってきました。呼びかけても、小さく唸るだけ。母に手で合図されたものを取ってあげられないと、辛そうな表情を浮かべます。

次第に、昏睡状態になっていきました。意識が朦朧としている母に、「この前ね、“大事なのは、その人とどれだけ長く一緒に居たかじゃない。その人といる間に、どれだけ愛してるか、伝えたかなの”っていう言葉を見つけたよ。お母さんは、いつも伝えてくれたよね。僕の気持ちは伝わっていたかなぁ」と、私は涙を必死に堪えながら伝えました。母の返事はありませんでした。

そして、4月4日の夜、いよいよ脈が少なくなってきました。父と祖母、弟と私は、ひたすら母に呼びかけました。この時でした。母の脈が一時的に戻り、日を跨いで数時間、持ち堪えたのです。「今日まで、もたせようと思ってくれたのかなぁ」と、働きながら夜通しで懸命な看病をしていた父は言いました。こうして、奇しくも父との結婚記念日に、母は世を去りました。

もし、私の感性が病気によって僅かに鈍っていなかったら、今度こそ立ち直れなかったでしょう。私が療養の身になったのは、母が最後に母親としての自分でいられる時間を過ごすためだったのでしょうか。分かりません。僕には分かりません…。

「もし、僕がイエスなら、お母さんは蘇るはずだ」と、棺に横たわる母に、手を当てる私。あんなに温かだった母が、とても冷たい。やはり、私はただの人でした。でも、私は、この母に育てられたことを誇りに思います。私は、ただの人です。でも、誰よりも愛に満ちたこの女性に育てられた人です。

私は、「母の美しさは、か弱さにある」と思っていました。とても繊細で、それゆえに人の痛みが解る強さ。でも、病にあっても信じられぬほど気丈に振る舞う母を目の当たりにして、「この女性は、誰よりも剛かった。これからの生涯で、母より剛い人に会うことはないだろう」と考えを改めました。

葬儀の日。棺桶に横たわる母に、花を添えます。式の最中、何とか涙を堪えていましたが、隣にいる弟が咽び泣くのを見て、耐えられなくなりました。私は、息子としてならば誰よりも母を愛している自信がありました。しかし、母が病になってからというもの、弟が数年にわたり毎晩浴室で泣いていたのをのちに知って、「この子に及ばないなぁ」と思ったものでした。

今でも、家を整理すると、母が書いたものが出てきたりします。“おかげさまで、長男も今年で幼稚園です”という年賀状の下書きや、小児喘息だった私の状態をとことん細かく記した“ぜんそく日記”、入院中に書いたであろう「もっと、二人のお世話をしてあげたかったなぁ」というメモ。いずれも、涙なしには読むことができません。でも、いつまでも泣いているわけにはいきません。母の分まで、元気に生きなくては。それが、一番の親孝行だから!

 

*注16

ー「稀である」としか言いようのない出来事の数々に“特別な何か”を感じ始めていた私。「もしかしたら自分はイエスのように特別な存在かもしれない」と思うこともあった。しかし、それは“明確に否定”された。あんなに温かかった母の手が、こんなにも冷たい。「力を分けてあげるからね」。病室の時のように、願いの限り母の手に触れる。そこに、母の微笑みはなかった。疲れやすく、横になることが多かった母。でも、この度の寝顔は「もう起きないよ」と語りかけるようだった。…私の幼いとき、わるさをすると“死んだフリ”をよくしたよね。「ふふ、嘘よ!」と言って起き上がって。お願い。…この数年後、私は“聖霊の注ぎ”を受けることになる。それは福音を信じた時に与えられる“いのち”である。私は、このことから母との再会を確信している。なぜなら、「母の愛でつくられた」と言っても過言ではない私が、神に「よし」とされたからである。よろしければ、回心の場面まで、もう少しお付き合い願いたいー

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