Age13

規則

「知らなかったルール」

中学校へは、エスカレーター式に上がることができた。小学校の同級生のほとんどは、そのまま進学した。中学では、もう半分の生徒が、外の学校から難しい入試を受けて入ってくる。私は、ここに来て、ようやく事実を知ることになった。周りの、一緒になって遊び呆けているだけだと思っていた友人たちのほとんどが、家に帰れば、必死に勉強していたことだ。というのも、中学から高校へも内部進学の道があるのだが、その高校というのが、全国でも指折りの名門で、そこへは一学年160人のうち上位三割しか進めず、小学校にきた子の大多数は、その少ない椅子を狙っていたからである。

小学校と中学校は、同じ教育大学の附属校ではあったが、学校生活の仕組みは、全くと言っていいほど違った。そのことを伝え聞いたのか、今後を見越した両親の意向により、中学校生活が始まる前に、学習塾で勉強を始めることになった。

小学校では、真面目だということが半ば誤解されて、“優等生”と嫌味なく称えられていた私だが、一般的な勉強はまるでしてこなかった。

両親が選んだ塾は、とても厳しい上に、よりにもよって新設の特殊校舎に入ったものだから、見学するだけでも、「なんとしても競争に勝つ」という味わったことのない空気が伝わり、大きなストレスがかかった。それでも入塾することになったのは、それまでは私の意思を尊重してくれていた両親がどうしてか聞き入ってくれなかったことが理由。ただ、内部生も形だけ受ける中学入試の手応えが惨憺たるもので、「これはまずい」と自分自身が感じ、断れなかったところもある。

入室前に、大きな声で挨拶するというルールはじめ、今までの環境とは全く異なる世界であったから、最初こそ戸惑っていたが、おもしろいもので、わりとすぐに慣れた。しかし、入塾時にテストを受け、S2というクラスに自分が振り分けられたことは、ショックだった。二つの仕分けのうち、下のクラスだということ。それまで、ほとんど勉強していなかったのだから、いたって当然である。ただ、いざ、自分が“点数で測られる”という経験をした時、それが“自分そのもの”の価値のように思えてしまって、戸惑った。未体験のことだったので、そういった大きな誤解をするのも無理ない。

授業はというと、難しいことを扱うのだが、驚いたことに、とても面白かった。強化校舎で、界隈で有名な講師が集まっていることもあって、教え方が上手だったからであろう。そして、非常に親身だった。あとは、周りの受講生が他の色々な学校から来ていて、個人指導しか受けてこなかった私にとっては、新鮮であった。

初めは嫌々ながらだったが、気づけば、塾生活に慣れている自分がいた。中学の入学までの春期講習後のクラス分けテストも、いきなりあるのではなくて、小テストを重ねていってそれから、ということであったし、そもそも準備をして試験を受けたことがない私にとっては、最初こそ取れなかったものの、頑張ったことが点数にあらわれるということが、いわば知的ゲームだった。

そうして、春期講習の総まとめ兼、新学期のクラス分けテストでは、真ん中のクラスになり、進級の準備もできたうえで、4月を迎えた。

さて、中学の校舎は、慣れ親しんだ小学校のすぐ隣に連結するような形であるし、半分は知っている学友だから、気楽なもの。そのような私ですら緊張していたのだから、入学式で外部から入ってくる子たちがどのような心境だったかは、容易に想像がつく。

ドキドキしながら校門を抜け、入り口の前に来ると当然、顔を知らない子が混ざっているわけであるが、入り口の前にある掲示板で自分の名前を探す。私は、一年B組になった。中学生活の一年目にこのクラスに入ったことは、とても幸運だった。ベテランの穏やかな女性の国語教諭が担任で、物腰柔らかであったし、クラスメイトが快活で、終始楽しい雰囲気だったからである。

私は、小学校の終わり頃、友人達と、入試で入ってくる子たちのことを勝手に詮索して、「お堅い子が多いんだろうな」なんて失礼なことを話していた。中学生活の終盤まで多くの学友に外部生と思われていたほど、私の方が遥かに堅物であったし、確かに違った雰囲気を持っていたが、知的な面白さに溢れながら根は真面目という、素敵な人ばかりだった。

一学期の半ばともなると、中間試験が近づいてくるわけだが、そういった中でも、いつも通りに楽しく過ごしながら淡々と試験の準備をする友人たちの勤勉さには、敬意すら覚えるほど。

一方の私はと言えば、塾の春期講習では、書き込み式のテキストを使っていたから、中学の最初にあった国語の授業で、ノートの枠線を縦に使うことを知って驚いている始末。塾での先取りがあって、いくらか余裕はあったものの、この国立中学は、国の指定した教科書に準拠しながら、非常に高度な授業をしていたので、綿密ですごく有意義だった反面、かなり苦戦した。部活動が終われば塾に直行し、復習は特殊校舎のカリキュラムに任せきりといった感じで、この齢にしてはなかなか多忙であった。

部活動については、バスケットボール部に入るつもりだったが、「この学校のバスケ部は厳しいらしい」と皆が口を揃えて言うので、やめた。そこには理由があり、小学校の終わりに観戦したアメリカンフットボールに感化された私は、それまで小学校の長い休み時間のたびにシュート練習ばかりしているような少年だったのだが、「アメフトをやりたい」という気持ちが強くなっていたのだ。でも、バスケに対する未練も残っていた中で、基礎体力をどのようにつけるか考えた時、自由気ままにプレーできないのであれば、脚力をつけようと思った。こうした経緯があり、私は、創部されたばかりの陸上部に入ったのだった。

学校の授業を終え、部活動をこなし、その足で塾に向かうという日々を続けて、最初にあった中間試験の結果は、後ろから三十番代ということで、なかなか厳しい結果に。塾の試験では、好成績が出せていたのだが、両親は内部進学をさせたがっていたので、この結果にやや立腹した。私からしたら、「この生活でこれ以上どうしろと」という感じなのであるが、同じ環境でうまく回している他の学友の勉強の仕方や切り替えといった“器用さ”を目の当たりにすると言い訳できず、同じ量の時間が与えられているのか疑いたい中で「とにかく彼らの技術を吸収するしかない」と思った。

夏休みは、塾の夏期講習でほとんど缶詰だったが、今思えば、愚痴らずよく通ったものである。この夏に、部活の練習で、都心の総合体育館で走ったのはいい思い出だ。

二学期にもなると、それまでの日々を考えれば、“多忙”といっても差し支えない状態の私ではあったが、てんてこまいという感じではなくなってきた。相変わらず要領がわるいので、時間にゆとりがあるわけではなかったが、気持ちの面では幾分か余裕があった。

三学期になると、塾の方に変化が。というのも、「中学二年は、中弛みの時期で、ここでどれだけ詰め込めたかで合否が分かれる」というのが塾の主張で、“特訓クラス”と言われるコースの選抜試験が近づいていたのだ。いつまでも、学友たちの“要領のよさ”を吸収することはできなかったが、代わりに、塾の方針である「180点分の勉強をすれば、半分の実力しか出せなくても九割取れる」という“根性論”が身についていた。このやり方は、間違ってはいないかもしれないが、人を選ぶ。そして、“私には合っていない方法”だった。しかし、頑張ることが“できてしまい”、選抜試験に通ってしまったがゆえに、まだ幼かった私は、「この取り組み方が自分に合っている」と誤解し、結果、精神を病んでしまうことになる。

中学生活は、第二学年に差し掛かった。この学年でまず不運だったことは、クラス替えで、仲の良かった友人が皆、他のクラスになってしまったこと。私は、気軽に話せる友人がおらず、孤立した。この時の学友が、嫌な人達だったということは決してない。むしろ、男女問わずどの子も、私のことを慕ってくれていた。ただ、“気心の知れた仲”にまではなれず、“いい人どまり”で、いつも言いようのない寂しさに駆られていたのだ。

そして、塾生活にも変化があった。英数国の特訓クラスとは別の、理社のクラス分けで、私は成績が振るわなかったのに、内部進学の事情で、上のクラスになってしまった。そこで、“嫌味な発破”をかける講師に当たってしまう。「プレッシャーを与えて伸ばせば、入試の圧は気にならなくなる」という持論を掲げることはともかく、それが生徒に「死んでしまえ」と言ったり、「お前の答案を穴の開くほど見てやる」と吐き捨てることにつながるのは、ちょっと行き過ぎだと思う。私の極端な実力不足もかなり問題だが、あまりいい印象はない。ただ、彼のことは、全く恨んではいない。むしろ、私の物語のうえでは(ヒールのような扱いで申し訳ないが)、重要人物である。

この、荒んだ時期に、同じ中学で、学校のクラスが同じになることはなかったものの、その後の約二年間にわたる辛い受験期を共に乗り越えた戦友との出会いがあった。彼とは、塾で缶詰になりながら厳しくされる日々の中、同じ方向の帰路、電車に揺られながら、趣味の話で息抜きをしたり、慰めあったり、時には深い対話をしたりもした。

このような流れの中、一年の時とは比較にならないほどスケジュールは過密になり、それまでの環境変化のストレスが蓄積して、

「いよいよ私はおかしくなり始めた」のであった…

 

~コラム⑤~

「貴女の正体は?」

二度にわたって、

しかも人生のコアなところで出逢った

“美のイデア”。

全く別の人物が瓜二つにみえた

これは“幻覚”の類なのか

私の精神状態を考えれば、

あり得ないことはない.

しかし、重要なのは「そこ」ではない

あたかも「御使い(天使)のように」あらわれたこと

すなわち、

-彼女が何者であったとしても-

私にとってその遭遇が

「神の御手による出来事であった」

ということだ.

その意味で、

まさしく彼女の正体,

私が“精神的に”目撃したものは

「御使いだった」と結論づけられる.

また、会えるのだろうか?

私には逢いたい人が沢山いる.

話せなかった母方の祖父と父方の祖母,

最愛の母,

今まで出会った家族たち,が信仰を共にする未来

たしかにみたのだ

“御使い”を追うように生きてきた中で、

「愛する人が神の国で一堂に会するビジョン」が.

彼女は、私の“望み”が具現化したもの,

言い方を変えれば

「エサウのアキレス(踵)」

なのである。

-Age13
-,