「神よ,我が祈りにこたえたまえ」
母は、私の状態が精神疾患の罹患によるものであることを見抜きました。そして、R国際病院という、精神科に強みのある大きな病院の予約をとりました。ただ、多くの患者を抱えているため、診察は二週間先になり、廃人の一歩手前であった私は、気が気ではありませんでした。
学校は数日休み、母が塾に電話を入れました。数学の優しい講師が、「我々が早く気づくことができず、すみません」と語ったらしく、それを伝え聞いた私は、やるせなくなって、すすり泣きました。
苦しい状態をもはや隠す必要はないので、終日唸っていると、見かねた母が、「R国際病院にかかる前に、近所の病院に行ってみよう」と、家から少し離れたクリニックに連れてくれましたが、あまり進展はありませんでした。しかし、「自分は、病人なんだ。この祈りは、おそらく病気によるものなんだ」と思えたことは、僅かながらも支えになりました。なんといっても、母が自分のこと以上に私を案じてくれたことが力になりました。このように心配してくれる大切な家族だからこそ、その大切な人達を呪ってしまう自分が理解できず、祈りを必死に取り消そうとしてしまうジレンマが苦しみの原因でした。その苦悶にギリギリのところで抗いながら、このことがどういう契機で起きたかということが明らかになる日がやってきたのです。
十二月の中旬に差し掛かるかどうかという寒い日に、例の病院にかかる時が来ました。道中は、真っ暗闇な心に一筋の光が差しているような感じで、「きっと何かが解る」という期待がありました。
その病院は、カトリックの聖人にまつわる名を冠していることからも、キリスト教的な奉仕を目指す病院らしく、二匹の蛇が巻きつくような十字架が、美しいシンボルマークでした。ただ、当時の私は、祈りに苦しんでいたので、どうにも複雑な気持ちになりました。それでも、かなり新しく立派な佇まいの病院に、縋るように進み入りました。
精神科は上の方にあるらしく、エスカレーターで向かいました。広い通路を辿ると、大きなフロアに、ひらけた待合室がありました。どうやら、私を診てくれるのはこの科の部長らしく、まずは予備診察のカウンセリングからということで、私だけ一室に案内されました。
そこでの会話内容は守秘義務ということで、家族に話せなかったことも、細かく話しました。およそ七ヶ月の間に起こったことを全て吐き出すようでした。私は、「自分が抱えていたものを誰かに話すだけでも、こんなに違うのか」と驚き、心にヘドロのように溜まっていたものが浄化される感じがしました。予備診察が終わり、待合室で待っていると、やがて本診に呼ばれました。
初老くらいの小柄な医師が、黒いソファに手をのべ、「どうぞ座って」と言いました。その医師はどこか威厳があったのですが、随分と深く沈む椅子の座り心地が良く、自然とリラックスしました。
母が隣にいたので、「細かな話までされるのかな」と思いつつ、「疑念が晴れるくらい、病状を教えてほしい」という気持ちもあって、やや複雑でした。少し会話のやりとりをすると、その医師は、「間違いない」というような表情をしました。
「君は、何か大きなストレスにさらされることがなかったかな?」とその医師は聞き取りを始めました。小学校からの急激な環境変化について諸々話しますと、「無理もないな」といった感じに頷き、「君は、自分の思う、嫌なことを祈ってしまったわけだね。これは要するに、自分が嫌なことを勝手に考えてしまうってことなのね」と語ると、続けざまに、「どういうことかというと、君の脳が、精神に大きなストレスがかかった時、“これじゃまずい”ってんで、気をそらそうとしたわけだ。だから、君は、自分が願っていたから、嫌なことを祈っていたんじゃなく、むしろ、自分が絶対に嫌なことをイメージすることで、本能的に自己防衛していたんだ」と説明しました。
医師が語り終えると、私は、憑き物が落ちる心地になりました。そして、体裁も気にせず、「そうだったのかぁ…!」と喜びました。「僕が、家族を呪おうとしたのは、絶対に呪いたくなかったことの裏返しだったんだ」ということが分かったのですから、当然の喜びです。
「原因がわかるだけで、症状は改善されるだろうから、少し安定剤は出すけど、次の来院は当分、先でいいよ。お大事に」そう言って、診察が終わりました。
その後、トイレで用を足して手を洗っていると、先ほどの小柄な名医が入ってきました。「このほどはありがとうございます」と再びお礼を言うと、「無理しないで、お大事にね~」と気さくに返事をくれました。何ともつかみどころのない人でしたが、彼は“精神の”恩人です。
階下におり、薬と会計の手続きをしました。母は、「よかったね、辛かったね…」と、境遇に同情を示しながら、嬉しそうでもありました。きっと、私が久しく見せなかった笑顔が、そこにあったからだと思います。
原因が分かると、祈りの頻度は一気に少なくなりました。しかし、精神的に困憊しているのは変わらないので、ここからの過ごし方を相談しました。「とりあえず、何か気が紛れるものを探そう」と母は提案し、家電量販店でゲームを買ってくれる運びになりました。「好きなもの、何でも選んでいいよ。全部、お母さんが買ってあげるから」と言ってくれました。
私は、当時の小型ゲーム機としては最新のものと、ソフトを買ってもらいました。あまり遠慮はしなかったのですが、正直、ずっと欲しかったゲームでも、「気休めにはなれど、これで傷ついた心が癒えることはないだろうなぁ…」と悲観的でした。もちろん、嬉しかったですが、それまでの苦闘の余波が甚大で、影響が色濃く残っていたので、本来なら声高に喜んだでしょうが、帰りの電車でパッケージの箱を何ともドライに眺めていました。
家に帰ると、初期設定をして、ゲームのオープニングを観ました。『危機の核心』というその作品は、びっくりするほど綺麗な映像で、“英雄を目指す主人公が、運命に翻弄されながら成長する”というテーマに自分が僅かに重なる気がして、少し興味が湧きました。舞台を颯爽と駆ける青年の爽やかさに、私は、憧れました。ムービーに魅せられながら「また昔のように、清々しく日々を歩める時が来るのかな」と思いを馳せ、そのとき確かに、私は未来を予見したのでした。
このようにして、私の祈りとの苦闘の炎は、少しずつ鎮火していきました。
さて、受診後の予想はいい意味で裏切られ、私は、日に日に目覚ましく回復しました。ただ、この時の記憶は、あまり鮮明ではありません。祈りの症状と対峙していたときに、思考の自由を奪われたことがあまりに強烈に記憶されていたので、そこからの解放の過程は、一転して意識が自然な流れになったがゆえに、あまり覚えていないのだと自己分析しています。特に、学校と塾生活にどう復帰したのか覚えていないのですが、冬休みに差し掛かっていたことを考えると、その間に大分、復調したのかもしれません。
さて、第二学年も三学期に入ります。この頃は、祈りに苦しむということはありませんでした。おそらく、「自分の嫌なことを、防衛的に思考していただけ」という生理的なメカニズムを意識が理解した以上、そこから自分の首を絞めるような方向へは進まなかったのだと思います。私自身も、スケジュールがゆるせば、無理がたたらないように気をつけるようにもなりました。
ただ、やはり余波は残っていて、嫌なことを祈る代わりに、考えたくないようなイメージが頭に浮かぶようになりました。しかしもはや、「これは現実ではなく、脳が作用したものだ」という理解がありましたので、息を吐いたり、軽く咳払いをするなど、ちょっと意識をぶらすだけで、消えていきました。
こうなると、いよいよ本当に、七ヶ月あまりの生き地獄から抜け出せたと言ってもいい状態でした。しかし、第二学年はもうすぐ終わってしまいます。なんだか、とにかく苦しみばかりの学年でした。でも、自身との闘いをしていた学年にあるうちに苦悶から抜け出し、それから新学年に向かえるというのは嬉しいことでした。ただ、第二学年が終わるとはすなわち、いよいよ受験勉強が大詰めになることを意味していました。
*注3
ー衰退と繁栄は、イスラエルの救済史のテーマである。それは、人類の救済の縮図とも言える。私は己が半生に、つくづくそのことを思う。大切なのは「神の計画は繁栄で閉じる」ということ。この物語も、最後はハッピーエンドなのだろうかー