謙遜を通り越して、信徒としての働き–すなわち生き方–を物笑いの種のように卑しめること。働きを誇らないのは、キリストの十字架を誇るからである。それは、十字架が神の愛そのものだからである。その愛を信ずることによって、神が我々の内に住まわってくださっているなら、自らを貶めることは間違いである。神は「卑しい者のために」と人間よりご自分を低くされたのであろうか。決してそうではない。信徒は神から愛の眼差しを相応しく注がれ、御子の贖いを受けたのである。なれば、伝道の働きは何気ない談笑にさえ及ぶべきではないか。
例(要約/参照聖句);キリストの贖いゆえに、自己卑下は忌むべきものである/コロ2:18-23,ピリ2:6-11|使徒パウロは真理を語る働きの価値を知るゆえに、誇ることを控えた/IIコリ12:5-6|働き人であるパウロは十字架を誇りとし福音を恥としないことを宣言する/ロマ1:16,ガラ6:14