これから祝福されるべき人々。罪の意識がある人ほど“厳かな”神の目を避けようと遠ざかりがちである。しかし、聖書によって明らかになるのは“憐れみ”の神から自身の罪が赦される道だ。「自分の[罪]が明るみに出るのがこわい」のは創られた人間のもつ潜在的な[神]への畏れである。よって、“創造神の存在”をはっきりと信じることは、そのまま自らの罪の告白となる。[回心]によってもたらされるのは、むしろ“罪責感”からの解放なのである。
例(要約/参照聖句);かつては違ったが信じた今は神の民である/Iペテ2:10 |憎み合っていた者が神の慈しみを受けて新生する/テト3:3-5|かつての背信はキリストによって清められる/エゼ37:22-24