信仰を燃やす“敬虔さという灯油”を絶やしてしまうこと。霊的に鋭くなるほどに“義しい構え”が崩れる瞬間に気づく。それは己が罪の認識が改まる成長でもあるが、痛みを伴う。真水にわずかでも異物が入ったらば清さは失われるが、信仰とは「人間の心が罪に満ちた汚水である」との自認からはじまる。“聖書によって心を加熱し,泥水を蒸発させ,清い塩に近づく営み”が信仰生活とも言える。自己省察を以って「油を絶やさないこと」が肝要だ。
例(要約/参照聖句);軽率な不信心に陥る終わりの時/IIテモ3:1-5|いのちを奪うあらゆる貪欲に注意せよ/ルカ12:13-15|夜襲に剣で備えるは戦いの基本/雅3:7-8