すべての創造者にして統治者。聖書が示すのは[父なる神]と[主イエス]および[聖霊]が等しい[位格]においてその“唯一の称号”を共有しておられることである。人間は愚かにも[神]を知覚によって捉えることに挑むが、一般的なそれは受動的ゆえ畏敬がない。だからして信仰といういわば“能動的な知覚”を[神]は「よし」とされる。未信徒はしばしば「[神]がいるなら(-a),不条理はおかしい(-b)」と主張する。しかしながら、この命題は(a)において[神]の全能性を認める必要が前提の議論であるからことを踏まえると(b)は成立しない。放蕩息子の帰りを“慈悲深く情熱的に待つ”お方。その実在者が[神]である。世が苦しみに満ちているのは、我々が[神]の家に帰る喜びをこのうえなく味わうためだ。
例(要約/参照聖句);唯一なる神の称号/ヘブ1:4|自分の欲を神とする世/ピリ3:19|この世の神であるサタン/IIコリ4:4