ふさわしくないはずの選びを受けた者として「神に相応しくあろう」と生きる気持ち。不敬虔を痛切に感じる身にも関わらず、神は憐れみ,一方的に恵みをくださる。不遜にも立場の違いを考えず“恩返し”をしようとすべきではない。そうではなくて、“神の愛への感謝を表現すること”を目指すべきである。その一つは、罪赦された者として隣人に接すること。「神に偏愛はない」という事実を信徒が行いを以って表すことである。どのようにすれば神に喜ばれるかを考えて生きるところに、愛されし人間としての限りない成長と喜びがある。
例(要約/参照聖句);務めにふさわしい働き人たる兵士として、神に献身するがごとく最善を尽くしなさい/IIテモ2:14-17,2:3-6|本来ならば値しない者だと恐縮する,使徒パウロの召命意識/Iコリ15:9-11,1:26-28|ふさわしくないほど至高である御霊を保証としていただいた今、地上の幕屋が壊れることを恐れる必要はない/IIコリ5:1-6