聖書という真理の解き明かしの場においてのみ、そうであるべきもの。世で偽りの賞賛を受ける知識は「自分の力で得ようと欲するもの」である。そのような性質上、作り話について議論することは単に虚しいだけでなく、人を傲慢にする。しかし、世から疎まれるキリストの真理は「神からいただけるように望みたのむもの」である。だからこそ、聖書の論証に生涯を献げることは、神の御前での謙りだけが可能にする。己が力によって高潔になろうとする穢れに気づき、御恵みによって浄めていただこうとする認識にこそ、救いの発露がある。
例(要約/参照聖句);神によって、この世の知恵の獲得は愚かなものとされ、人々は信仰を望むことによって救われるようになった/Iコリ1:18-21|俗悪な無駄話で論争するでなく、ただ御言葉を真っ直ぐに解き明かす働き人として自らを神に献げよ/IIテモ2:14-17|主への誇りゆえに、神の論理を強力な武器とした使徒パウロの自認/IIコリ10:1-12