サウル
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サウル

イスラエルにおいて最初の王である。油注ぎを受けた当初はよかった。しかし、その後サムエルの到着を待つことができなかった(神の機を捉えられなかった)ところから、王として不適格なことが徐々に明らかとなってくる。神の命令に反しアマレク人を[聖絶]しなかったことを機に彼から御霊が去り、代わりにわざわいの霊(悪霊)が入った。我々は「神が最初からダビデ王を立てていればよかったのでは」と考えがちだ。しかし、そもそも王政が神の御心に反することであるからして、ことは「善王が一代現れてどうこう」という話ではない。まずサウルが立ち、その次にダビデが立てられたことに意味がある。すなわち、神の采配は「後代の王について“ダビデの道”を基準に比較して記述するため」であった。偶像礼拝に陥ったイスラエルには悪王が次々に現れ、それらは“ヤロブアムの道”と評価される。南北分裂後の王政は真実の信仰と偶像礼拝が対峙する歴史であったから、その良し悪しを「ダビデ」と「ヤロブアム」という名前で区別する必要があったというわけである。ただ、ダビデの治世では偶像礼拝はイスラエルに入っていなかったから、彼をほぼ満点(→ヘテ人ウリヤおよび人口調査の事件)の評価としてヤロブアムと比することは可能だろうか。そう、後世の王たちを「ヤロブアムの道(偶像礼拝の不信仰)ではなくダビデの道(真実の神への信仰)を歩んだ」と記すためには「ダビデ自身が偶像礼拝とたたかっている必要がある」のだ。かくて、ダビデ王の歩みこそが基本路線であることを示すために、サウル王という“異常な王”を先に立てる必要があった。偶像には悪霊が住む(不信仰の原因)と言われるが、サウルの場合は「彼自身が偶像となっていた」のである。その貪欲な生き方の通り、彼は自分自身を神とし“サウルという偶像神”に堕落していた。ダビデ王はこの“サウル”とたたかったというわけである。本来は心優しい男だった、この悲劇的な人物。王としては不適格であったが、神の采配において“器”として用いられたことは事実である。我々が決められることではないが、願わくは「荷物の間に隠れてしまう」初心な頃の彼に会ってみたいものである。

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