万人救済主義は真理か?
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万人救済主義は真理か?

おもに自由主義神学にみられる「すべての人間が救われる」という主張である。この立場は“聖書道徳的”だが“聖書的”ではない。なぜなら、聖書が救いの道として提示しているのはキリストの福音への信仰のみだからである。神の十字架を無意味にしてはいけない。それでも私が“聖書道徳的”と言ったのは、信徒でありながら「未信徒の人々も救われるはずだ」という理想を持つことは隣人愛に基づくであろうからである。

それでも、この立場を取るべきではない。福音以外の救いを人間が勝手に提示することは、かえって未信徒の救済を閉ざしてしまう可能性が大きいからだ。神が定められた救いに“付け足し”をするのは、人間が救済計画に介入することであり、あってはならない。ただ、信徒が祝福を喜ぶあまりしがちな「未信徒のまま世を去った人々は救われない」と断定することは越権行為であり、これもまた避けるべきである。聖書に自らの理想を無理やり見いだそうとするのも、聖書原理を強調するあまり独善的になるのも筋違いだ。未信徒の救いについて教会の指導者は、二通りの立場を取るだろう。

一つは,「聖書によれば、未信徒が救われることはない」という聖書理論(現実主義)の立場.もう一つは,「聖書の神は、未信徒をそのままになされないはずだ」という聖書道徳(理想主義)の立場だ.この二者は相反するものである。しかしここで、信仰というのは現実において理想を祈ることであるゆえ、聖書理論と聖書道徳は本質的には両輪のものであることを思い出そう。ともすれば、聖書的に未信徒の救いを見出すことも不可能ではないはず。

そこで私が注目するのは“「神は完璧な采配者であられる」という聖書全巻のメッセージにおけるモーセ五書の位置付け”だ。『出エジプト記』34章,『民数記』14章,『申命記』5章.この箇所において「わたしは、従順な者には恵みを先代にまで及ぼし、父祖の咎は四代までも問う」というようなかたちで、神がご自身を紹介しておられる。この箇所を論理的に読めば“四代先までの父祖に咎があった者は、神の恵みに与って回心できない”ということが言えるのではないだろうか。つまり、家族が未信徒のまま亡くなった場合でも、自分が回心すれば(そのことが未信徒を救う直接の方法にはなり得ないとしても)家族に大きな咎がなかったことを証明できるのではないかということ。これは、手がかりであって、確証ではない。「書かれていることを越えない」こと、つまり聖書的なあり方を貫くためには“聖書で神が断言しておられることのみ伝える”のがどこまでも大切だからだ。明らかに言えるのは、地上生涯で人々が回心できるような福音伝道が、最善手だということである。愛に燃えすぎて、結果的に愛に冷えないように、完璧であられる神の御心にどこまでも依り頼もう。

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