三位一体の盾
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三位一体の盾

知らない人はいないと言ってもよいキリスト教発祥の概念であるが、じつは聖書には[三位一体]という言葉そのものは出てこない。異端とたたかうために教会が聖書における神概念を定式化したのが[三位一体]なのだ。正統信仰を確かめる方法は「神は唯一ですか。父なる神は神ですか。イエス・キリストは神ですか。聖霊は神ですか」という問いである。ここから外れていなければ、基本的に“異端”ではない。ただし、“カルト”は教祖をキリストだと偽って結びつけるので、ここに当てはまらないからといって油断してはならない。この問いが重要である理由は、聖書の神概念を捉え違えると、教祖崇拝のような非常に危険な思想になるからである。しかし、本来ならば策定する必要がなかっただけに[三位一体]には複雑さが伴う。そのゆえに、先人たちは[三位一体]を仕方なく「これは信仰によってのみ知り得る奥義なのだ」と信仰の領域に持っていった。

しかし、どうだろう。神の国に至ったとき”「父なる神が統べ治め、主イエスが長兄で、聖霊が信徒の内に住まわっている」ことをどう説明するか。思索すべきことを信仰領域に追いやると、じつにシンプルなこの問いに答えられない。ただ、やはり教会史の巨人たちは偉大である。“三位一体の盾”の中にその答えを遺していたのである。つまり、「[神]は絶対者のみが名乗れる“唯一の称号”である」ということだ。これは、聖書的にも符合することで『ヘブル人への手紙』の1章4節がその根拠となる(私自身、この見解に至ってから聖書理解で躓いたことはない)。この、いわば“三位一称”は「三つの神がいる」ことではなく、ここが難しい。「神の絶対性はその唯一性と一致する」ので、その権能はあくまでも一つなのだ。少しでも分かりやすいように、二つの例を以って説明する。

①統率の観点から,企業を例にとろう.会社の社長は一人だが,共同経営者という運営形態は存在する.その場合,代表取締役が複数人というのはあり得る.ここで[三位一体]を考えると,いわば“世界を経営している”お三方(父・子・聖霊)は代表取締役ではなく社長(神)という“最高権威を共有している”状態なのだ.であるから,非常に難解ではあれ,理解できないものではない.

②じつは,グー・チョキ・パー,という性質の異なる手が三つあるジャンケンが身近なヒントになる.これは神概念においては“三つの位格”にあたる.それぞれが異なるが,三つとも等しく“ジャンケンの手”であり,一つでも欠けたらジャンケンは成立しない.ここでいうジャンケンが[三位一体]における[神]にあたる.そして、その“ジャンケン”そのものに実体はないが,概念としては明らかに存在するのである.この「実体がない」ということへの限りなく精確な答えが“称号”という捉え方なのである.

さて、以上の二つが、私の考えうる説明だ。キリスト者として残念に思うのは、教会は[三位一体]において「位格に差はない(御父と御子と御霊は平等である)」と言いながら、感謝がキリストに偏っていること。これはイエスさまご自身の思いに反することだ。「父なる神に感謝するために、聖霊を大切にし、キリストの十字架を思い出す」というのが、主イエスの御心ではないだろうか。人形に過ぎない偶像神から、真実の神へと人々の心が向かうことを。

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