聖書解釈の手引き
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聖書解釈の手引き

私はかつて福音宣教を騙るカルトに遭遇した。連中が「牧師さん」と呼びながら、裏では再臨のイエスとして崇拝する教祖は「聖書を2000回読んだ」らしい。この教祖は呆れてしまうほどの反面教師だ。おかげで、日常生活を取り戻すのに四年かかった。「聖書は正確に一回通読したほうが遥かによい」ばかりか、間違った読み方をすると「かえって神の御心を損なってしまう」と彼らは教えてくれた。経験不足だからこそ「私のような無知ゆえの失敗はしてほしくない」という願いを込めて、聖書を正しく読むための3つの“コツ”をお伝えしたいと思う。

①執筆状況を加味しながら文脈に沿って字義通りに読む.これは一番大切なポイントである。“字義通り”とは[字義的解釈]とも呼ばれるもので「文字通りに読む」ということだ。聖書は神の御言葉であるから、わざわざ救いについて複雑に書くようなことはない。実際、“聖書をある部分だけ比喩的に解釈する立場”を採る人々は多いが「聖書が完璧な神による救済書である」という一貫性を損なえば、それは聖書の構造–すなわち、神の御言葉–を人為的に“操作”することになるからして、あってはならない。そして、字義通りに読むためには、その巻がどのような背景のもとで書かれたかを加味することが大事である。執筆条件(時代環境や当時の習慣)は執筆テーマに直結するし、当時の社会状況は現代と一致しない部分もあるからだ。例えば、カルトは『伝道者の書』から多くを引用する傾向があるが、この書は「ソロモン王がこの世の栄華を“否定する”意図がのもとに書かれた」ことを前提にしなければ「間違った情報という意味合いで肯定文にて提示している」箇所が無視されてしまう。また、前後の文脈から切り離すのも誤りである。それは端的に表現すると「姦淫して/はならない」と書かれている部分から否定辞をとるようなものだ。

②「沈黙」という書かれ方がある.多くの人が過つのは、聖書に書かれたことを越えて自分の意見を聖書に見出そうとするときである。『ヨブ記』のメインテーマでもあるが、神は「沈黙」という仕方で語られることがある。つまり、「書かれていないことが答えである」ことがある。ヨブに立て続けに起こる災難への具体的な解答を神はなさらなかった。いや、そうではなく「わたしの権威を問うあなたがたは義人ではない」というのが暗黙たる答えであり、むしろ非常にはっきりと解答をなさっている。もし分からないことがあれば、祈りによって尋ねることで、必ず導かれる。

③聖書全体のメッセージを忘れない.現代では[自由主義神学]という立場が流行っている。これは、「聖書道徳的な神学だが、聖書的な神学ではない」。「神はこのようなお方のはずだ」という人間の理想を聖書に(つまり神へ)無理やり見出す立場だからだ。しかし、それは「回心できなかった故人を想うゆえ」であったり、人情的な動機に基づくであろうことが、信徒初期の自分に重なる私には、じつによくわかる。原理的な信徒がしがちな「未信徒はみな地獄に堕ちる」という主張は、先の“沈黙”という原則を無視しているし“越権的”である。「隣人を裁くあなたは何者なのですか」。聖書全体が明かすのは「神が完璧な統治者である」こと。すべてを神に委ね、常にいま自分のし得る最善手を打とう。当然、「いたずらに聖書を2000回読む」なんてことはあり得ない。

ちなみに、聖書を読む順番についてだが、これは自由である(ただし、どの巻から読むにしても、その書は“つまみ食い”せず章を追って読んでいただきたい)。私個人としては、はじめて読む人には『ルツ記』をおすすめしている。このように伝えるキリスト者は非常に珍しいかと思うが、聖書への否定的なイメージが確実に覆ることだろう。さらに続けて『マタイの福音書』を読めば、その系図に“ボアズ”と“ルツ”(先の物語における主要人物)が登場することから、メシア(キリスト)が到来することへの伏線理解も早まるかと思う。そうしたら次は『創世記』から順に通読へ向かってみてほしい。まずは“注解つきの聖書”を選んで、コーヒーでも片手にリラックスして読むとよい。その際は新共同訳(スタディ版)か新改訳(バイブルナビ)を使っていただきたい。こういったものには[適用]という注解者からのアドバイスがあるが、それは参考程度にとどめよう。肩の力を抜いて、ぜひ愉しんで。

このメッセージが少しでも読者の聖書研究における手引きとなれば幸いである。

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