運営者の立場
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運営者の立場

私の神学的な立場について、敢えて平易な表現を避けて表明させていただきたい。

1.典者

聖書は神の霊感を受けた人間が代筆し、聖霊の導きによって正典66巻が定められたゆえ、誤りなき書である(IIテモ3:16)とする。また、神が救済の書を難解に書く必要はない理由(IIコリ1:13)から、a)聖書の翻訳を作為的に改変する異端,b)比喩的解釈のカルト,c)文脈と歴史的背景から切り離した自由主義神学,に反対する立場である。また、“三位一体の盾”については認めながらも、後述の理由から“キリスト→神”という構造で感謝が主イエスに「偏る」現代教会のあり方は、ご本人の御心にも反するため、よしとしない。聖書の解釈そのものは“プロテスタント福音派の神学”から学んでいるが「洗礼は救いの条件ではない」ことの実証と“普遍教会”を意識して地域教会からは独立した信徒である。それは教会の乱立が未信徒にとって回心の敷居を高くしている事実を覚えるゆえでもある。終末をいたずらに強調する者ではないが、きわめて切迫した状況にあることを意識している。

2.聖書全体のメッセージ

「言葉があれば当然のことながら発話者は存在し、内容が正しければ神は実在する」という命題に基づき、引照の正確性などを通読によって事実であると確認する者として「聖書は神によるご自身の存在証明論文である」(ヨハ5:39)ことの証人を自認するに加え、聖書は“臨在の一形態である”とする。また、聖書が“全体のメッセージ”として伝えていることは「神による全知全能の統治」であるとし「未信徒の救いは臨終に際する神とのやり取りに委ねる」(最善に導かれることを信じる)という立場をとる。なお、一般啓示と律法の良心による踏襲(ロマ1:,2:)が記されているゆえ、陰府については「解らない」としたうえで輪廻は否定し(ヘブ9:27)、セカンドチャンス論には懐疑的である。そのうえで、律法書で繰り返される「神は先祖の咎を後代に問う者である」(民14:18など)という記述から「自分自身が祝福されている」ことを救済可能性の逆算的な希望(子孫に先祖の咎が及んでいない印)とする。このことから“不自然かつ無用な解釈”はしない。

3.無の応え

こと“生理欲求”について「自慰行為などを極端に制限することは却って躓きになりかねない」という信徒としての経験から「“自慰”について書かれていないのは明らかに不可解であるが、それが“性の排泄行為”と捉えられている可能性は考え得る」という立場をとる。これは『ヨブ記』における「神の采配にご自身が応える義務はない」ことへの理解から「神は“沈黙”という応え方もされる」との立場を採用しているからである。よって「聖書に書かれていないことは、それが答えである」としたうえで“御霊の律法”の導きによって感覚的にこれを判断する。よって、これまでの主張を含め「書かれていることを出ない」(Iコリ4:6)という姿勢を徹底し、越権行為や高慢に細心の注意を払っている。主イエスは「女性を見るときに情欲が先行すること」を明らかに戒めておられる(マタ5:28)が、私は度々この箇所を曲解しようとした。そのような弱き私は「あらゆる行為の基準を“神への礼讃”に据える」(Iコリ10:31)ことを行動原理とし、その“確信”に基づいて(ロマ14:23)生きることを志す者である。

4.三位一称の感謝

正統教会の主張する“三位一体”は「聖書に概念として明らかに読み取れる」(エペ4:4-6など)という立場をとる。これは「父なる神は神である。子なる神は神である。聖霊なる神は神である」との告白が“福音の三要素”および、その信仰によってもたらされる救いの核心につながるとの見識に基づく。しかし同時に「聖書に“三位一体”という概念がありながら言葉が出てこない」という事実を積極的に考える。これは「信徒が神の国に至ったとき、三位一体をどう説明するのか」という素朴な疑問にことを発するものである。「父なる神が見守っておられ、主イエスが長兄であり、聖霊が“御国の民”の内に住まわっておられる」。その観点から「“三位一体の盾”において中央に座す[神]は全能者のみが名乗ることのできる“唯一絶対の称号”である」ことを“聖書的”な理解だと自認する。その極めて強力な根拠は、旧約における[主]が新約においてイエスにあてられていることである(ヘブ1:4)。しかし、あくまでも“三位一体”の教理を逸脱すべきではないとする。それどころか“キリスト教”という呼称は本来なら「十字架において三位一体の神が接すること」を表すべきだからして「感謝がキリストに“偏る”」ことは「位格に差はない」という主張を自ら壊すもの(エペ5:18-20)であり「聖書および主イエスのご発言に反する」(マタ22:34-40)とし「現代教会のあり方は真に“三位一体”的とは言えない」とさえ主張するものである。

5.福音の意味

“福音の三要素”すなわち,1)キリストは私たちの罪のために死なれ,2)墓に葬られ,3)三日目に甦られた,ことへの“信仰”が「聖書に書かれた」ところの救いの条件だとする(Iコリ15:1-5)。ここに、1)キリストが聖霊によって生まれた罪なきメシアであるゆえの贖罪権(レビ16:21-22),2)ナザレのイエスはマリアから生まれた人性を持つこと(マタ1:18),3)父なる神の御子として神である(ロマ6:1-14など),という原理の内包を読み取る。決して福音に付け足しがあってはならないが「福音は“復活信仰を含め心の底から”信じ、聖霊の内住を確認しなければならない」とする。そのわけは、この三要素には,1)旧約におけるメシア預言と歴史書の系図,2)福音書におけるイエスの公生涯および諸書におけるキリストの受難と勝利の讃歌,3)使徒による書簡の神学と黙示録の復活信仰,すなわち「正典66巻のすべてが含まれている」からである。したがって“本質的には”「聖書信仰が救済の核である」とする(人間は神への信仰によって救われるゆえ、旧約時代の信徒はメシア預言への信仰によって救われると考える)。

6.正典の提示者

筆者は自らの召命を“正典の提示”に見出す。そもそもアダムとエヴァの堕落は神の指示に背き“善悪の樹”から取って食べる(創3:1-6)という「選択」に意味があったからである。つまり、救済史の始まりは「自由な意思決定の付与」だと考える。したがって「聖書を自らの意思によって選び取る」いわば「“生命の樹”(聖書)から取る“本来的なエデン”の再現」が重要であるとの思想から“主体的真理”の追求権を認めながらも「選択肢として聖書を知らなかった」という“悲劇”を決死の覚悟で退けようと志す者である。

7.放蕩息子の帰宅

世界の不条理に対する答えを「被造世界は不完全なのではなく“未完成”なのである」という点に見出す。物理法則は完璧であり“常に未完”の科学が採るべき本来的あり方は「神の讃美である」。科学は「どうのようにして」には答えられても「どうして」に応えられない。その「どうして」については“完結した”聖書に書かれているのである。「神は世界を完璧に創れなかったのか」という問いには「壊れているのは“世という背信的考え方”である」と応じる。先のエデンについて、神は「永遠に生きる者」となる“生命の樹”(信仰の象徴)から意図的にアダムとエヴァを遠ざけた(創3:22-24)。それは人間が放蕩の限りを尽くした(つまり、罪にまみれた)のちに、神の愛に触れ立ち返ることが「神にとっても人間にとっても最高の幸せに至る形だから」である(ルカ15:11-32)。そうしてこそ人間は完成し“いのち”たる(神の似姿である)「愛」を知り得る、ということだ。

8.終末論

七時代主義,キリスト再臨時携挙説,再建的千年王国論をとる。まず、携挙はキリストの再臨時に起こることである(IIテサ4:16-17) 。しかし、黙示録4章以降に教会は登場しない。ということは、黙示録の2章と3章に登場する“教会”の意味するところに解釈上の要点があることになる。そうすると、黙示録は「預言書でありながら書簡である」という観点が得られる。すなわち、七つの教会の示すところは、のちの教会時代(使徒時代〜現代まで)を七区分した宛先であることが見えてくるのだ。この解釈を適用すると、黙示録7章における大患難が1933〜1945に起こったホロコーストであることと決定的に合致する。だからして、黙示録はそもそも「押し寄せる大患難をとめどなく並べたもの」ではなくホロコーストをイスラエル救済史における大患難として中心に据え「各時代に起こる患難を七つに分けながら記述したもの」であるとするのだ。そうすると、千年王国の意味も確定的ではないものの見えてくる。千年王国の到来と同時期にその時代の信徒が携挙され、過去の信徒が復活する理由に「ハルマゲドンによって荒廃した世界を神の国へと再建する千年」を見出すのである。このような終末観から、福音伝道に焦燥感を覚えながらも、神のご計画に自ら“介入”しようとするのでなく御手によって“重用”していただくことこそ本来的なあり方だという姿勢をとり活動する者である。

9.信仰とは

信仰とは文字通り「信じ仰ぐこと」である。そして“仰ぐ”という行為は、その定義上、神の主権に対してのみ適合する。偶像礼拝というのは、神の超自然的な力を切り取って物質にした人形を崇めること(ロマ1:21‐23)であり、この場合、偶像崇拝者は本質的に「自らを神としている」(ピリ3:19)。つまり、主権が人間の側にあり、自らの願望をただただ神々に投影するのが、多神教文明の特徴である。冷静に考えればわかることだが、すべてを知り得るはずもない神々(その実態は悪霊の住処)が物事のピンポイントだけを狙って“ご利益”をもたらすことはあり得ず、唯一の神から未信徒を遠ざける意味において災いである。このような理論から「信仰は一つである」こと(エペ4:5)は明らかだ。では、なぜ我々の多くが唯一神を信じられないのかといえば「理解しようとしないから」、すなわち「疑いを消そうとしないから」である。「どうして?」と思ったとき“神の主権を揺るがぬ礎石として、人間の側から”祈り尋ねることこそが「信じ仰ぐ」ということなのである。よって、聖書研究においては勝手な解釈を施してはならず、字義通りの読みで不可解な箇所があったらば「なぜ神はこのようになさったのだろう?」と祈りによって尋ね求めながら励むのが、その本来的なあり方だといえる。信仰生活とは主権者たる神への疑問を、限りなく問い続ける歩みなのだ。

以上は、私が至った神学思想の礎にして集大成でもある。

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