神は戦争の扇動者では?
信徒として聖書の通読を繰り返すと[主の戦い]は「神の義によって為されたものだ」と自然に捉えることができるようになる。しかし、未信徒の人々には「聖書の神は虐殺者ではないか」と受け取ってしまう場合もあろう。神による戦いは、その御目から判断されることであるから、本来ならば人間的に説明すべきではない。けれども、聖書に人々が向かえるように、ご自身を理解してほしいこともまた御心に違いない。「人間心理的に考えても神による戦いは正当なものである」ことを二つの点から説明してみよう。
1)神の戦いは“防衛戦”である. まず、神の戦いが侵略戦争ではないことを押さえたい。神がイスラエルを用いて異教の民を裁くとき、場合によって[聖絶]を命じるのも、偶像が“パン種”として選民のなかで発酵し、選民を霊的に護るためである。それ以外の場合も神ご自身が“必要以上の略奪”を命令したことは「一切ない」のを必ず心に留めねばならない。「カナンの戦いは侵略戦争ではないか」という主張もあろう。だが、被造世界は神の所有物であるからして、イスラエルに命じられた戦いは“奪還”のためのものであり、その意味でやはり自衛的である。
2)異教の民への裁きは、イスラエルへの護りである. 未信徒たちは「異教民族が虐殺された」かのように捉えがちであり、ついそこにばかり焦点を当ててしまう。たしかに彼らとの戦いは激しかった。しかし、彼らの蛮行を我々が目撃していない以上は、そこにある神の義について語ることはできない。我々は「イスラエルが護られた」点にこそ着目すべきである。イスラエルが“救済の苗木”として残っていなければ、聖書が我々のもとに届き、聖なる戦いについて知ることもなかったのである。もし、神ご自身が隠すような動機で戦を扇動していたなら、わざわざ記録することもあり得ない。
以上のことから、神による戦いは「救済の苗木であるイスラエルの聖さを護るためのものである」のが諒解いただけたことだろう。「それでも腑に落ちない」ということならば聖書において〈「イスラエル」と書かれているところを「日本」と置き換えてみてほしい〉。彼らを起点として救済が異邦人(例外なく日本も)にまで及んでいる以上、彼らは同胞‐あるいは恩人‐である。この観点を適用してみると、信徒が違和感なく主の戦いを受け取っているそのわけがわかるはずだ。聖書が我々のもとにあるのは、主の戦いが正当な理由で行われたからである。その記録を受け入れないことこそが重大な過ちであることに気づく必要がある。
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