無律法主義
新約の信徒は律法の下にはおらず、何をしても罪に定められないとする立場。使徒の書簡においては律法の存在意義が繰り返されているため、この立場は非聖書的な誤りである。旧約律法が神の救済における起点に選ばれたイスラエルに適用されている事実が示すのは「律法は神の国の法律である」こと。ゆえに「律法が無意味である」と主張するのは神の国を否定するようなものだ。旧約律法は無意味なのでなく“無効”なのであり、それは新約律法–すなわち[御霊の律法]–へと“更新”されるためであった。
旧約で示された律法は「隣人を愛する」という目的のもと制定された。国家の体制が崩れない限り、法律は改定されることがあっても、根は変わらない。神の国は不変であるから、律法の根底も変わらない。よって、キリストの十字架による贖いを境に「旧約律法は神の国の法律へと遷移した」という捉え方がより正確かもしれない。
旧約の民は信仰によって救われたことを律法の遵守によって“表現”していたのに対し、新約の我々は律法の遵守が信仰によって可能であることを“証言”するという逆転的な構造がここにはあるだろう。選民イスラエルに求められたのは、神の臣民として“神の国の型”を示すところにあった。それでも、信仰によらなければその踏襲は不可能であった。主イエスが現れてからの異邦人キリスト者には“信仰”という方法が強調されているという違いがあるだけなのである。
つまり、旧約において神の国の法律が示されたが、神の国に入る手段が信仰であることには変わりなかった。新約で為された律法の更新は信仰が強調されることで聖霊の導きによる“踏襲”に力点が置かれるという仕方によった。つまり、[無律法主義]を唱える者は聖書論理の逆を教えていることになる。つまり律法は“守るもの”から“守れるもの”に変わるとともに、信仰を“表わすもの”から信仰が“表れるもの”になったということだ。神の恵みに生きる人は幸いである。
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